真理を知るであろう
You Will Know the Truth
February 3, 2015
引用文集
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また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。—ヨハネ 8:32
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クリスチャンにとって、究極の真理の表明は、聖書のイエスの言葉に見いだせます。イエスはこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。…」[1] もちろん、哲学者や懐疑論者の殆どはこの主張を退けますが、クリスチャンにとって、イエスは希望と安心と導きの頼みの綱です。水の上を歩かれたイエスは、自らを神だと言い、死からよみがえり、自分が真理であり、真理の源であると語られました。イエスが間違っているなら、私たちはイエスを無視すべきですが、もしイエスが正しいなら、イエスの言葉に耳を傾けるべきなのは確かです。証人たちは、自分の目撃したことを書きました。彼らはイエスと共にいたのであり、イエスが多くの奇跡を行い、病人をいやし、命じるだけで嵐を静め、その上、死からよみがえなさるのまで見たのです。―マット・スリック
真理とは何か
2千年近く前、ローマ人の総督が、死刑に処せられようとしていた人に、ある深い質問をすることにしました。
「真理とは何か」という質問です。[2]
ほとんどの人は人生のどこかでその質問について考えるものです。特に、人生の意味について悩んでいる時などです。そもそも、意味を必要とするのは人間の基本的な必要であり、何かの究極的な真理がなければ、何も意味がないということになりえます。私たちは本能的に、究極の真理は神の存在に関係があると知っているようです。実際、神の存在を否定する人と、絶対的な真理はなく、何もかも相対的であると語る人は、同じ人たちであるというのは興味深いことです。でも、私たちの心の深いところで何かが、そうではないと言います。何かが、神は存在し、真理への鍵を持っておられると告げるのです。…
2千年近く前のローマ帝国の総督であり、イエスの目をのぞき込み、「真理とは何か」とたずねた人とは、ポンテオ・ピラトです。
ピラトは真理そのものである方に話していました。肉をまとった神に話しかけていたのです。世界が創造されたのは、その方を通してのことでした。
「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」とイエスは宣言されましたが、その日、真理はピラトに自由を得させはしませんでした。というのも、ピラトは心から真理を知りたがってはいなかったからです。だから、総督公邸でのあの歴史的な瞬間、目の前に「真理」が立っておられたというのに、ピラトは皮肉をこめてか、悲しみをこめてか、「何が真理なのか」とたずねざるを得なかったのです。
ピラトは真理を知りませんでした。真理に委ねたがらない人の心は、決して真理を知ることはありません。
イエスは、メシアであると語っただけでなく、数々の「しるしと奇跡」によって、神の力、ご自身の力を表されました。水をワインに変えたり、嵐に静まれと命じたりして、自然に対して権威を持っておられることを明らかにされました。嵐は実際に静まりかえったのです。イエスは、大勢をいやし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、病んでいる人を健康にしたりして、人々への憐れみを明らかにされました。人々を死からよみがえらせることもなさいました。最後には、十字架にかけられて埋葬されたのですが、その体は死からよみがえり、その後、500人以上の人々の前に現れました。受胎からよみがえりに至るまで、人生のすべての段階で、イエスは数百年も前の預言を成就したので、聖書を知り、信じていた人たちは、イエスがメシアであると確信するようになったのです。―著者不明 [3]
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ことば[キリスト]は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこと[真理]に満ちておられた。—ヨハネ 1:14[新改訳]
あなたには真実でも、私にとっては違う…
クリスチャン哲学者であるJ・P・モーランドは、バーモント大学の学生との啓蒙される出会いについて記しています。モーランドは寮で話をしていたのですが、その寮に住んでいた相対主義の学生がこう言いました。「何であれ、あなたにとって真実であることはあなたにとって真実であり、私にとって真実であることは、私にとって真実です。あなたが何かを信じていることで、それがあなたにとってうまくいくなら、素晴らしいことです。だが、何もかも相対的なので、誰も自分の考えを他の人に押し付けるべきではありません。」
モーランドは立ち去る時に、その学生のステレオをコンセントから抜き、それを持って出ようとしました。学生が、「ねえ、何してるんですか?…そんなことしちゃダメでしょう」と言うので、モーランドはこんなふうに応えました。「君のステレオを盗むのは間違っているという信念を私に押し付けるわけじゃないですよね?」 そして、学生にこう指摘しました。都合のいい時には、性のモラルとか試験でのカンニングなど気にしないと言っておきながら、誰かが自分のものを盗もうとか、自分の権利を侵害しようとするものなら、手のひらを返したように道徳的な絶対主義者になるということは、何について道徳的な相対主義者となるかについて、えり好みしていることになります。」
興味深いことに、数週間後にこの学生はキリストの信者となりました。神と、人間の尊厳や権利との間のつながりに気づいたからです。神がご自分のかたちに私たちを作られたということに気づいたのです。これは、「イエスのためにステレオを盗む」という、福音伝道の新しく素晴らしい手段かもしれない、と諸教会に告げたいものです。—ポール・コパーン
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あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。―コロサイ 2:8
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あなたにとっては真実でも、私にとっては違う、というのは、自滅的で、ゆえに偽りの言葉です。この件については、今日、あなた自身で決定的な証拠をあげることができます。時速90キロの道を150キロ近くで飛ばして、スピード違反で警察に止められたら、「それは、あなたにとって真実でも、私にとっては違います」と言って、またスピードを出して走ってみるのです。それは、あなたにとって真実ではないので、警察はあなたに交通違反切符はあげられないんですよね?―フランク・トゥレク
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キリスト教は、偽りであるのなら、何の重要性も持たないが、真実なら、限りなく重要である。だが、それが、やや重要だということはありえない。―C・S・ルイス
聖書にそう書いてあるから
クリスチャンとして、私たちには、神が存在するという確信があります。この世界は神の世界であり、人は神のかたちに造られたという確信です。私たちが正しいとすれば、現実は非常に明確に構造化されていることになり、どんな懐疑主義者でもそれを逃れることはできないということになります。本当に病的な人でない限り、その言葉や振る舞いは常に、この世界についての最も深い信念を表すことでしょう。もちろん、自分のイデオロギーの領域を守ろうとしていないなら本当は明白であるはずのことでも、感情や偏見、頑固さにより、否定するかもしれません。しかし、誰でも防御態勢にないときには、世界の基本構造は、少なくともだいたいのところは、聖書に記されている通りだと理解しています。簡単に言うと、口では正反対のことを言っていても、ポストモダニストにとっても、論理や合理性は今なお大切だということです。―グレッグ・コウクル
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クリスチャンの世界観からすると、神は、単に何が義であるかを語る存在ではなく、神ご自身が義なのです。善と義は、神の本質の特性です。私たちは、神にできないことなど何もないと思いそうになりますが、そうではありません。神は、ご自分の性格にそわない行動や命令はできません。神は本質的に論理的で道徳的な方なので、罪を犯すことが不可能であるように、「四角い丸」や「結婚している独身男性」を作ることも不可能です。客観的な道徳的真理は、実に、永遠の神の存在を反映しているものなのです。真理は、神が造られたルールや法則というわけではなく(ゆえに、むやみに変わってしまうものではなく)、私たちの宇宙に反映された、神の本質の、不変で信頼に足る資質です。それは、(神が創造されたから、あるいは後に認めなさったからではなく)神が存在するゆえに存在するものです。聖書には、神は全能で、しようと思ったことは何でもおできになるとあります。しかし、神の選択は常に、神の道徳的、論理的本質にそったものです。神としての存在に反するようなことは決してなさらないのです。―J・ウォーナー・ウォーレス
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知識は、人間の人生において、何ものにも代えがたい独特の機能を有しています。人間の他の能力とは違って、知識は、人が行動し、導き、教えるのにふさわしいものとし、知識不足は、そうした面で人を不適任とします。…それゆえに知識は、自信をもってうまく現実と向き合うための基盤を築きます。そのようなわけで、それは、人が獲得できる中でも最も尊いもののひとつでしょう。人は、「知識がないために滅ぼされる」[4] と聖書にありますが、それは、知識がないと確実に、現実と向き合っても破滅的になるか、あるいは、向き合うことをしないからです。一番重要なこととして、神や神の御国、永遠に生きる可能性といったことに関して、現実と向き合えないのです。―ダラス・ウィラード
絶対的なものは存在する
科学、数学、芸術、音楽、歴史、哲学、宗教というあらゆる分野で、彼らは絶対的なものに対する信仰や確信を滅ぼそうとしました。何か確かなもの、必ずそうなる、真実である、正しいというものが存在するという信仰を揺るがそうとしたのです。「そうとは限らない。あの聖書に書いてあることも、そうであるとは限りない。聖書をはじめとして、歴史も宗教も哲学も、そうだとは限らない」というのが彼らのテーマソングです。彼らからすれば、何から何までそんな感じなのです。「創造もそうとは限らない。音楽も、芸術も、何一つとして、『こうである』とは言えない。そういうものは存在しないのだから。真実であるといえるものはないので、真理は存在しない」というわけです。
ピラトはイエスに、「真理とは何か」とたずねました。それに対するイエスの答えは、「わたしは道であり、真理であり、命である」というものです。[5] 何もそうとは言えないのなら、何も真理ではなくなり、真理が存在しないのなら、キリストも存在しません! そこで、神の存在を反証するために、彼らは真理や論理、秩序、計画、法則、規範などの存在を反証しなければなりませんでした。…
今日の革命的な教育は、神に回帰する教育であり、それは、この現代にあっては本当に革命的です。創造に関して神に回帰し、宗教における真の信仰に戻り、科学では創造に戻り、歴史においては計画に戻り、芸術では美しさに、音楽ではハーモニーに戻り、読みの学習では規則に戻り、振る舞いでは正誤、政府では秩序、すべてにおいて神に回帰するのです。神こそ、すべてのものの創造者であり、すべてを設計し、計画し、人生が再び意味をもつようにされる方です。…
論理に立ち返りましょう。聖なる設計者は、ルールに沿って計画し、秩序をもたらし、宇宙に意味を、惑星に目的を、私たちの心に愛を、思いに平安を、体に健康を、霊に休息を、人生に幸せを、魂に喜びをもたらして下さいます。その方が設計された存在様式に立ち返りましょう。神は、「主を恐れることは知恵のもとである」[6] ことを知る知恵を与えて下さり、ただの知識ばかりでは十分ではなく、神の栄光のためにその知識をどう使うかを知ることのほうが大切であることを教えておられます。
私たちはすべてに意味や理由、目的、計画、設計、ゴール、平和、秩序をもたらすために、また、大いなる「設計者」が、そのルールとおきて、正誤、絶対的なもの、つまりそれなしには平和も秩序も幸福もあり得ないものによって授けて下さった人生の設計にそって生きるために、すべての内に神を見なければなりません。
絶対的なものや、支配者である方が定めた規則を神に感謝しましょう。それによって私たちは、正誤の判断をし、神の愛と愛情深いおきてやほどよい規則を通して幸せを見つけることができます。「永遠の命とは、唯一の、まことの神…を知ることであります。」[7] あなたがその神を知り、絶対的なものを知るのを、神が助けられんことを。―デービッド・ブラント・バーグ
2015年2月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガーシア・ヴァルディヴィエソ。