命を選ぶ
Choosing Life
October 15, 2025
スティーブ・ハーツ
最近、神が申命記30章19節で語られたこの言葉について考えていました。「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。」
言うまでもなく、これは旧約聖書の聖句であって、イエスが来られたときに、十字架の上で私たちすべての者のためにのろいを引き受けてくださったことを、私は理解しています。パウロはガラテヤ3章13節でこう語りました。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。」
それでもなお、イエスはヨハネ10章10節で、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」と言われたのです。イエスは、十字架上で完成された御業によって、サタンの力の支配を打ち破られましたが、だからといって、サタン、すなわち「盗人」がこの世から取り除かれたわけではない、ということを理解するのは重要です。サタンは今もほえたける獅子のように歩き回り、誰かを食い尽くそうとしています(参照: 1ペテロ5:8)。ですから、イエスが来て私たちに与えようとされた豊かな命を選ぶか、あるいは、私たちの魂の敵がもたらす死と破壊を選ぶかという選択肢は、今もなお残されているのです。
本記事では、これまで何年もの間、命と死の選択が私にとってどのような意味を持ってきたのか、そして今もなお持っているのか、いくつかの例を挙げてお話ししたいと思います。
まず、言葉が持つ力についてです。箴言18章21節には、「死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる」とあります。これはつまり、私が自分の舌をどう用いるか、それが命のためであれ死のためであれ、人を励ますためであれ傷つけるためであれ、いずれにせよ、その選択の実を自分も他の人々も刈り取ることになる、という意味だと思います。これは身の引き締まる警告であり、私が毎日、自分の舌を命と愛と励ましの器として用いる選択ができますようにと、神の助けを求めるよう促してくれます。
私はこの点に関して決して完璧ではありませんが、失敗を通して多くのことを学びました。例えば、いくつかの歌のグループやバンドを指導してきたミュージシャンとして、特に一緒に働く人たちに建設的な批判を与える際には、言葉遣いに注意することについて多くを学びました。そうした助言を与えるのは、常に善意からであり、人々がパフォーマンスを向上させるよう励ましたいからなのですが、伝え方が時として率直すぎました。ほぼ、あるいはまったく、気遣いせずに話していたのです。そのため、私の建設的な批判は相手を傷つけ、何人かはひどく落ち込んで、しばらくの間、私と一緒に音楽をやりたくないと言うほどでした。さいわい、その人たちには謝罪して関係を正し、信頼を取り戻せたし、また一緒に私とやっていきたいと思ってもらえました。しかし、言葉の力についての教訓は、それ以来ずっと心に残っており、主は今も日々、愛をもって真理を語ることを私に教え続けておられます(参照: エペソ4:15)。
また、人の噂話をしたり、陰で悪く言ったりすることは、自分の舌を命ではなく死のために用いることになるので、そういうことは言わないよう、以前にも増して心がけるようになりました。同様に、自分自身の人生についても、否定的・悲観的なことではなく、神の約束の真理を語ることが大切です。イエスはマルコ11章24節で、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」と言われました。
命を選ぶとは、私を不当に扱った人に対して恨みを抱き続けるのではなく、赦すことを選ぶことでもあります。それは決して容易な選択ではありませんが、神の言葉には、神がキリストにあって私たちを赦してくださったように、私たちも互いに赦し合うべきだとあります(参照: エペソ4:32)。別の選択肢と言えば、苦々しい思いと恨みの道であり、それは私も他の人々も汚してしまう死と破壊の道です(参照: ヘブル12:15)。
命を選ぶとは、初めは失敗したり、うまく行かなかったりしても、単に敗北を受け入れて「自分は何をやってもだめだ」と諦めるのでなく、粘り強く取り組む覚悟を持つことでもあります。イエスが来て、私たちに与えてくださった豊かで完全な命を持つことには、自らの可能性を最大限に発揮し、神が求めておられる者となることも含まれる、と私は信じています。時おりの失敗は、成長と学びの過程の一部ですが、失敗に縛られ続けるなら、その目標の達成が妨げられてしまいます。神の恵みによって、私は失敗と向き合い、そこから学び、歩みを進めて、さらに成長し勝利していくべきことを学んでいます。
命を選ぶとは、たとえ状況がこれ以上ないほどに悪く思えるときでも、イエスに、そしてその忠実さと約束に、目を留め続けることを選ぶことでもあります。例えば、つい昨日、親しい友人がガンで亡くなったという悲しい知らせを受けました。一瞬、私は悲しみに打たれましたが、しばらくして、ダビデがしたように、主によって自分を力づけることを選びました(参照: サムエル上30:6)。何しろ、友人は救われていたので、今や彼女はこの地上に残されている私たちよりもはるかに良いところにいる、と知っているのですから。そこで私は、魂の内にある悲嘆と喪失感から、聖霊の神聖で慰めに満ちた臨在へと焦点を切り替えました。するとすぐに、必要としていた平安と慰めを見いだしたのです。
天国へ行けば、美しいものや完全な愛を経験することになるのは確かですが、イエスが与えられた命は、来るべき世だけのものでないことも、私は知っています。イエスは、今この地上においても、私たちのために豊かな恵みを備えておられるのです。パウロはこう語っています。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(2コリント9:8)。