苦しみのとき、あなたはひとりではない
You Do Not Suffer Alone
June 27, 2023
引用文集
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主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。—詩篇 27:1
ここでダビデは、希望を見出すことのできる唯一の場所、主の御前という場所を讃えています。ダビデの光となり、救いとなり、とりでとなるには、主は近くにおられなければなりません。想像を絶する苦しみの中で、ダビデはこう言っているのです。「神よ、あなたの臨在が私の道を照らし、あなたの臨在が私を悪から救い出す希望を与え、どこにも逃げ場がないと思われる時に、あなたの臨在が避けどころを与えてくださるのです。」…
私たちの希望は、神がなぜ私たちの人生に苦しみを許されたのかを理解することにはありません。私たちの希望は、どうにかこらえて耐え抜くことができると信じることにもありません。私たちの希望は、医者や弁護士、牧師、家族、友人にも見いだせません。私たちの希望は、精神的回復力や独創性にも見いだせません。私たちの希望は、アイデアにも物にもありません。私たちは、一時的な助けを求めてそのようなものに頼るかもしれませんが、最終的に、私たちの希望は、私たちと共にいてくださる主の真実で恵み深い臨在にあります。
主は、私たちを弱くするものによって弱くなることはありません。私たちを混乱させるものに惑わされることもありません。私たちを煩わせる気分の浮き沈みに悩まされることもありません。私たちのように恐れることもありません。間違った決断をすることも決してありません。自制が効かなくなることもありません。自分の言葉を撤回したいと思うことも決してありません。自分の振る舞いを後悔することもありません。衝動的に反応することもありません。不安に駆られることもありません。明日を恐れることもありません。あきらめたいと思うこともありません。変化をもたらすことができずに苛立つこともありません。主は私たちと共におられますが、これが素晴らしい慰めになるのは、主があらゆる点で私たちとはまったく異なるからです。主は無限の力を持ち、すべてを支配する権威を持ち、あらゆる面で完璧であり、私たちと共に住まわれ、私たちから去らないと保証してくださるのです。—ポール・デービッド・トリップ [1]
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コーリー・テン・ブームと妹のベッツィーはオランダ人のクリスチャンです。第二次世界大戦中、彼らとその家族は、ユダヤ人の逃亡者をかくまい助けたという理由で逮捕され、強制収容所に送られました。収容所で、ベッツィは病気で亡くなったのですが、栄光の眠りにつく前、ベッツィーはコリーに、世界にこう告げてほしいと言いました。「苦しみの穴がどれほど深くとも、イエスはさらに深いところまで行かれるのです」。
ベッツィーは何を言いたかったのでしょう。彼女は、イエスは他の哲学や宗教の神々のように、私たちの苦しみから無関係でいるわけでも、苦しみとは無縁なわけでもないと言いたかったのです。そうではなく、イエスは私たちの最悪の苦しみの中に入ってこられました。イエスは逃亡者、亡命者、多大な不正の犠牲者としての人生を経験されました。イエスは私たちが受ける苦しみを経験し、理解しておられます。私たちがどんな苦しみの穴に入ろうとも、主はさらに深いところにおられます。もし今日、あなたの心が砕け、慰めを必要としているなら、神ご自身があなたと共におられ、涙を拭い、あなたを抱きしめて、「わたしはあなたと共にいる」と言っておられることを知ってください。—マーク・スティッブ [2]
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ほとんどの人は必要以上に考えないようにしていますが、これは否定できません。この世界には多くの苦しみがあることを。残酷で不当な戦争によって、罪のない人々が殺され、傷つけられ、家を失っています。同じく、自然災害や人災によって、さらに多くの人々が苦しみを味わっています。ガンやその他の病気は、毎年何千万人もの命を奪っています。これには終わりがありません。なぜ人生はこうなのでしょう。神はなぜ苦しみを許されるのか、これは昔からある疑問です。
私たちは、神が苦しみを許される理由や目的をすべて理解することはできませんが、ひとつ確かなことがあります。それは、人が苦しみをどのように乗り越えるか、また、他人の苦しみにどう反応するかは、その人の信仰に大きく左右されるということです。公正で愛に満ちた神への絶対的な信仰を持つ人は、悩みの時に神に呼ばわって、痛みや喪失感から立ち上がる恵みと力を見出すのです。
フランク・E・グラーフ(1860-1919)が個人的に味わった苦しみについてはほとんど知られていませんが、今では有名な讃美歌『イエスは気にかけてくださるのだろうか(Does Jesus Care?)』を書いたとき、経験からそれを書いたに違いません。彼が表現している痛みは、単なる作り話というにはあまりにも現実的で、その場に居合わせたことのある者でなければ、サビで勝利のために見出された真実と希望を表現することはできないでしょう。「そうだ、主は気にかけておられる。主の心は私の悲しみに動かされる。… 救い主が気にかけてくださることを、私は知っている!」
苦しみは人生につきものです。しかし、苦しみの中にあっても、神の配慮と臨在を確信する素晴らしい信仰を、あなたも手に入れることができるのです。—アクティベーテッド誌
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イエスは気にかけてくださるだろうか
フランク・E・グラーフ
笑い声も歌も出ないほど深く心が痛むとき
イエスは気にかけてくださるだろうか
重荷に押しつぶされ、思い煩いに悩まされ
長い道のりに疲れ果てたときに
そうだ、主は気にかけておられる
主の心は私の悲しみに動かされる
日々に疲れ、長い夜が物悲しいとき
救い主が気にかけてくださることを、私は知っている
私の道が言葉にならないほど不安と恐れで暗くなるとき
イエスは気にかけてくださるだろうか
昼の光が深い夜の影に消えていくとき
気にかけて近くにいてくださるだろうか
この世で最も愛しい人に別れを告げたとき
イエスは気にかけてくださるだろうか
心が悲しみで痛み、はち切れそうなとき
それを気にかけて、見ておられるだろうか
そうだ、主は気にかけておられる
主の心は私の悲しみに動かされる
日々に疲れ、長い夜が物悲しいとき
救い主が気にかけてくださることを、私は知っている
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わたしが絶えずあなたと共にいるということは、あなたは決して一人ではないということだ。わたしは、あなたがもっとわたしを意識するよう訓練しているところだが、あなたは人間にすぎず、注意力の持続には限界があることを理解している。苦しみを味わっているとき、あなたは自分が一人きりだとか、見捨てられたとか感じることがあるかもしれない。しかし、わたしはあなたが決して一人で苦悩せずに済むように、十字架上で一人で苦しんだのだ。あなたはいつもわたしと共にいるし、わたしはあなたの右手を握っている。
わたしはあなたに忍耐力の訓練をしている。この教訓は気の弱い人のためのものではない。しかし、それは豊かな祝福であり、わが王国とわが苦しみにあずかることの一つの側面なのだ。
わが王国は永遠なので、無限の価値がある。そして、わが栄光にあずかるためには、わが苦しみにあずかることが必要であることを、わたしは明らかにした。さらに、この経験は、今ここで、品性という真の恩恵をもたらす。
耐は苦難を通してのみ培われる。だから、あなたが恐れている問題そのものを歓迎するよう、あらゆる努力をしなさい。感謝をもってそれをわたしの前に携え、わたしが必要と考える限りの間、それに耐えようという意志を示しなさい。この暗くて醜いものを、愛すべきものに変えるようわたしに願い求めなさい。わたしは、最も心を痛める状況の中に、明るく黄金の栄光の糸を織り込むことができる。この美しい模様が現れるまでには長い時間がかかるかもしれないが、この待つ時間が忍耐力を築く。愛する人よ、喜びなさい。わたしはあなたの品性を、わが栄光の光で輝くまで磨いているのだから。—イエス [3]
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「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」—使徒パウロ(ローマ 8:35, 37–39)
2023年6月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー 音楽:ジョン・リッスン
1 Paul David Tripp, Suffering: Gospel Hope When Life Doesn’t Make Sense (Crossway Books, 2018).
2 Mark Stibbe, God’s Word for Every Need (Destiny Image Publishers, 2016).
3 Sarah Young, Jesus Always (Thomas Nelson, 2017).