あまり思い煩わず、もっと信頼しよう
Worry Less, Trust More
January 28, 2025
引用文集
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第1ペテロ5章7節は、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」と教えています。聖書は、すべての思い煩いを神に委ねるべきだと明確に述べていますが、どうすればそれができるのでしょうか。
第一に、神は私たちに、神のために生きるのに必要な力をすべて与えてくださっていると気づくことです。第2ペテロ1章3節は、こう教えています。「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」 問題を乗り越えられるかどうかと心配する必要はありません。神の力は、私たちの最大の必要よりもはるかに大きいのです。
第二に、私たちの問題は、キリストにあって成長する助けとなると思い出すことです。ヤコブは実に、こう述べています。「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」(ヤコブ1:2–4)
第三に、問題を、祈って神に寄り頼むための機会として用いることです。ヤコブは、問題を喜ばしいことと思うべき理由を挙げた後、こう続けています。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5) 思い煩いや困難が迫る時には、助けとなる知恵を求めて神に頼ることです。
第四に、思い煩いは、私たちがキリストの体として共に働けるようにします。パウロは、第2コリント1章6節にこう記しています。「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。」 彼は、自分の苦しみもまた、他の人々の助けになると認識していました。…
第五に、神は私たちが後に他の人々を助けられるように、特定の問題を経験することを許しておられるのかもしれないということです。パウロが自分の痛みを他の人々を助けるために用いたのと同じく、神は、同様の必要を抱えている人たちにより良く仕えることができるように、私たちの人生における痛みを用いることができるし、実際にそうしてくださることがよくあります。…
すべてのクリスチャンは、生きている間に問題に直面していきます。それにはさまざまな理由があるでしょうが、そういった理由はすべて最終的に、神の計画と目的の一部として用いられるのです。神は、神を愛し、ご計画に従って召された人のために、万事がご自身の慈しみに従って共に働くようにしてくださいます。(ローマ8:28) ですから、私たちは思い煩いを主に委ね、それがいかにして、私たちがキリストにあって成長し、他者にとって助けとなれるようにしてくれるのかに焦点を当てると良いのです。—CompellingTruth.org [1]
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聖書は明確に、クリスチャンは心配してはならないと教えています。ピリピ4章6節で、私たちはこう命じられています。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」 この聖句から、私たちは思い煩うのではなく、どんな必要や悩みも、祈りによって神に委ねるべきでと学びます。… イエスは、天の父が私たちのすべての必要を満たされると保証しておられます。(マタイ6:25–34) ですから、私たちは何も思い煩う必要がないのです。
思い煩いはクリスチャンの人生にあるべきではないと言うのなら、どうやって思い煩いを克服すれば良いのでしょうか。第1ペテロ5章7節は、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」と教えています。… 神は、私たちに起こるすべてに関心を持たれるのです。神の関心を引くのに、大きすぎる心配も小さすぎる心配もありません。神に問題を委ねるなら、神は人知ではとうてい測り知ることのできない平安を与えると約束しておられます。(ピリピ4:7)…
イエスに人生を捧げた人には、イエスがこう約束なさっています。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28–30)—GotQuestions.org [2]
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私は長年ずっと心配性でした。「ポジティブ思考の力」や「明るい面を見よ」といった人生哲学に対する私の態度は、「そういうアドバイスは弱虫のためだ。俺は現実主義者だから、厳しい状況になれば心配するのは当然さ。それが普通だろう」というものだったのです。
別に、悲観主義者だというわけでもありません。ただ、自分になすすべのないことが起こると、慌てふためいてしまうのです。(まあ、自分になすすべがある場合でも、よく慌てふためくと認めざるを得ませんが。) 長年そんな感じだったので、胃潰瘍になって、それが悪化したのも驚きではありません。
最初に症状に気づいたのは、かなりのリスクやストレスを伴う「未知の海」の探検に乗り出す前夜のことでしたが、何とか切り抜けました。私の船は水が入り込んでいる状態だったものの、水を汲み出しながら、どうにか航海を続けられたわけです。
数年間はそんな状態が続きましたが、ある日、症状が軽減して良くなるどころか、経験したことがないほどの痛みになり、それがどんどん悪化したのです。症状が出た時にいつも通りの対応をしても、効き目がなく、体重も急減しました。
私の船は、沈みつつあったのです。医者の診断は、出血性潰瘍と重症の胃炎でした。医者は抗生剤を処方し、食事に気を付けるようにと言いました。しばらく「修理ドック」で過ごし、水漏れはふさがれ、症状もなくなり、嬉しいことに、この何年もの間、再発もしていません。
しかし、医者の助言に従うだけだったなら、この航海はそれほど幸せな結末にはならなかったと思います。病状が深刻だったので、神に助けを求めざるをえなかったのですが、私への神のメッセージは単刀直入でした。「船乗りよ、しっかりしなさい。あなたにもストレスマネジメントが必要だ。」
ここから、話が面白くなります。それからの私の人生は、特に大きな変革もなく続いていきました。今も心配しそうにはなりますが、そのまま心配し続ける代わりに、自分が航路からそれていることに気づくようになったのです。そんな時は、主を尋ね求め、自分で方角の調整をしたり、妻や他の人に祈ってもらったりします。すると、うまくいくのです。最初のステップは、自分が変わる必要があることを受け入れることでした。食事や運動に気を付けてはいたものの、大量の心配やストレスが害となっていたからです。それは、航海しながら、同時に沈没させようとしているようなものでした。
ヨハネ6章で、弟子たちが苦労していた時と似ています。彼らは、風が強くて波の逆巻く夜に、船の舵をとろうとしていましたが、イエスが自分たちのほうに向かって水の上を歩いてくるのを見て、怖くなりました。でもイエスは彼らに言いました。「わたしだ、恐れることはない」と。それで、喜んでイエスを船に迎え入れ、船はすぐ目的地に到着したのでした。(参照: ヨハネ6:16–21)
しばらくたって、イエスは弟子たちに、自分の平安を残していくので、思い煩ったり恐れたりしないようにと言いました。(ヨハネ14:27) 使徒パウロは読者に、心の平安についてこんな方策を与えています。「何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして、祈りに答えてくださる神に感謝しましょう。そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神の平安を経験します。キリスト・イエスにあって、その平安はあなたがたの心と思いを静め、安らかにしてくれるのです。」(ピリピ4:6–7 リビングバイブル)
パウロ自身、荒れ狂う海や牢獄、その他の非常にストレスになるさまざまな場所で、多くの時間を過ごしました。一度は地震のおかげで解放されたこともあれば(使徒行伝16:23–34)、幾日ものあいだ厳しい状況を耐え抜いたこともあります。(使徒行伝27章) しかし、何が起ころうとも、ただ放っておかれたことはありません。神は必ずパウロを切り抜けさせてくださったのです。私の話は、パウロの悲惨で身震いするような話と比べたら何でもないものですが、私も同じ平安を経験しました。イエスは私を慢性的な心配性から救い出されたし、誰に対しても同じことができるのです。—デービッド・ボリック
2025年1月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:マイケル・ドーリー