世に居るが世のものではない
In This World but Not of It
September 19, 2017
引用文集
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オズ・ギネスの新著『Impossible People』について、本人にラジオインタビューをする準備をしていた時、ある文章が目に留まり、ふと手を止めました。
実際のところ、クリスチャンが何世紀にもわたって知っていたような世界は、すでに過ぎ去り、永遠になくなってしまいました。簡単な復帰や再生など到底考えられないほど、跡形もなく姿を消してしまったのです。‥‥クリスチャン文化の闘争は、空しい行為となってしまいました。[1]
そんな言葉を読むとは予想もしていませんでしたが、じっくり噛みしめてみると、今や自分の心の奥底でも、それと同じ確信が強まっていることに気づきました。そう認めたくはありませんでしたが。時を戻して、クリスチャン的な物の見方が、良いものや真実なものや美しいものを認識する際の基盤となっていた時代に戻ることはできないことを、認めたくなかったのです。自分が生まれ育った世界が永遠に消え去ってしまったことを、認めたくはありませんでした。けれども、オズの言う通りだと思います。
‥‥クリスチャンが、「自分たちのうちにある望みについて弁明する」[2] こともできない文化と、ひっそりと共存することができていた時代は終わりました。これまでずっと傍観者であった信者たちは、もはや隠れることができません。彼らは反対に遭うことで、自分がどちらの側を選ぶかを、行動で示さざるを得なくなるでしょう。
私の場合は二つのことをしており、皆さんもぜひ同じことをするようお勧めします。
第一に、私は自分の期待を調整してきました。もちろん主は何でもしたいことがおできになりますが、私はもはや、次回の選挙に望みをかけることもなければ、御霊の新鮮な風が私たちの国を吹き抜け、自国にいながらにして異国人となることから、私たちを救い出してくれることさえも、期待しません。事実私たちはこれまで常に、この世においては他国人だったのですから。西欧諸国においてはクリスチャンでいることが比較的容易であったため、私たちはそのことをずっと忘れていましたが、他の地域にいる兄弟姉妹たちは、常に困難な思いをしてきました。おそらく神は、私たちが実際はどこに属しているのかを思い起こさせるために、しばしの間私たちの文化を「引き渡して」おられるのでしょう。[3]
第二に、私は神の恵みにより、どんな敵意や障害に面しても、またいかなる犠牲を払うよう求められても、キリストに忠誠を尽くすという決意を固めています。たとえ反対に遭っても、自分と家族がすべてを成し遂げて「固く立つ」[4] ことができるよう、備えていたいのです。状況はより容易になるかもしれないし、はるかに困難になるかもしれません。それがどうなるかは、神だけがご存知です。ギネスが述べているように、容易であった昔の日々は「永遠に過ぎ去って」いるのかもしれませんが、キリストに従う人々は、そんなことを気にすべきではありません。
最も大切なことは、両ポケットに一つずつ入れられた二つの小さな石に、絵の具で注意深く描かれた言葉に要約されています。それらの石は、オズが幼い頃、宣教師であった両親が、彼を南京から上海の寄宿学校に送り届ける際に、彼に手渡したものでした。そこには、ただこう書かれていました。「忠実であること」、そして「神を喜ばせること」。 —グレッグ・コウクル [5]
「信者はどうすれば、世に居ながらにして世のものとならないでいられるのか?」
新約聖書に見られるこの「世」という言葉は、ギリシャ語で「コスモス」です。コスモスは大抵の場合、神とは無関係に成り立っている居住地としての地球や、そこに生きる人々を指しており、サタンはこの「コスモス」の支配者です。[6] 世という言葉を単に、サタンに支配された世界体制を指すものと定義するなら、信者はもはやこの世のものではないとイエスが言明されたことの真意が、理解し易くなります。つまり、私たちは罪によって支配されてはおらず、この世の理念に縛られてもいないということです。それに加えて、私たちはキリストに似たものに変えられつつあり、それによって、キリストにあって成長を遂げるにつれ、世のものに対する興味をますます失いつつあるのです。
イエス・キリストを信じる人々は、ただ世に存在し、肉体がそこにあるというだけのことで、この世やその価値観の一部とはなっていません。[7] 信者である私たちは、世と分離した存在であるべきです。聖なる者となり、清く正しく生きるとはこのこと、すなわち世と分離することを指しているのです。私たちは世が促進する罪深い活動に携わったり、世が生み出す味気なく腐敗した思いを抱くべきではありません。むしろ、自分自身を、そして自分の思いを、イエス・キリストの御思いに従わせるべきです。[8] 毎日そのように行動し、また決意しなければなりません。
また、私たちが霊的な暗闇にいる人々を照らす光のような存在になろうというのであれば、世に居ながらにして世のものとならないことが必要であると悟らなければいけません。信者ではない人が、私たちの良い行いや振る舞いを見て、私たちはどこか「違う」と思うような、そんな生き方をする必要があるのです。キリストを知らない人間と同じように生き、考え、行動しようと極力努めているクリスチャンなど、キリストにとってはいい迷惑です。異教徒でさえ、「その実によって人を見分ける」ものだと知っているのだから、私たちクリスチャンは、内に宿している御霊の実を表すべきです。
世にいるとは、神が賜った美しい被造物のような、世にあるものを楽しむことができるという意味でもあります。けれども、私たちは世が尊ぶものに耽溺したり、世俗的な快楽を追い求めるべきではありません。私たちが人生で強く望むことは、もはや以前そうであったように快楽ではなく、むしろ神を崇めることなのです。—gotquestions.org より [9]
たとえ世界を手に入れても
たとえ世界を手に入れても、代わりに救い主を失うのなら
一日でも生きる価値などあるだろうか
私の待ちわびる心は、休息や慰めを見いだすだろうか
すぐに過ぎ去ってしまう物事の中に
たとえ世界を手に入れても、代わりに救い主を失うのなら
それは生涯を通じて苦労を重ねる価値のあることだろうか
この世のあらゆる宝は比べるに値するだろうか
キリストに満たされた人生の、たとえ一瞬とでも
この歌は世界を手に入れて救い主を失うことについて歌っており、神の言葉にかなりかなっています。というのは、聖書には「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」[10] とあるからです。もちろん、そのような駆け引きは損失以外の何ものでもない、というのがその答です。あらゆる貴重な所有物を、永遠に失ってしまうのですから。
けれども、人間の魂の価値を、どうやって測ることができるのでしょう? 神はそれを非常に価値あるものと見なされたので、それを贖うためにご自分の御子を与えられたほどです。神の御子によって贖われた人々は、神を喜び、神と交わるというこの世で最も甘美な経験をする素晴らしい能力を魂が持っているゆえに、魂は大切な価値のあるものだとみなします。また、そのためにイエス・キリストが払われた代価や、魂が持つ、永遠に朽ちることのない性質ゆえに。
その一方で、神の言葉にはこうあります。「世と世にあるものとは過ぎ去る。」[11] ですから、どのみち持ち続けていられないものを手放すことは、大した損失ではありません。それに、これまで誰も、この世の大部分を手に入れたことはないのですから。全世界と比べるなら、最も裕福な人も、ほんの僅かしか所有しておらず、最も強大な征服者も、ごく小さな地域しか征服してきませんでした。この世はあなたの心にそっと忍び込んで、無益でまるで不必要な、取るに足りない事柄であなたの心を一杯にすることで、そこからキリストを締め出し、あなたがつまらないものを重視し、この世のものに時間を費やし、イエス・キリストとの交わりや御言葉を読むことよりも、物質的なものに関心を向けるよう仕向けるかもしれません。
けれども、この世は決して満足を与えてくれません。もしあなたが、何をしても満足が得られず、まだあの虚しさや、魂の中でうずくような空虚感を感じているなら、この一節を聞いて下さい。「イエス・キリストは、満足を与えてくれる取り分である。」 何百万人がそうであると証言し、主がすべての心の願いを満たして下さったと述べています。この世の仕事とこの世の報酬以外何一つ知らず、少しも満たされて感じなかった時、キリストが人生に入られて、暗かった魂を、素晴らしい光が照らしたのだと。神の言葉はそれを、「キリストの顔に輝く神の栄光の知識」と呼んでいます。[12]
あふれんばかりの富や愛を手にして
私の名が至る所に知れ渡っても
将来には希望がなく、嵐に揉まれる私の船を
迎えようと待っていてくれる港もない
たとえ世界を手に入れても、代わりに救い主を失うのなら
十字架を忍び、私のために死んで下さった方を失うのなら
世のあらゆる富をもってしても、逃れ場を買うことなどできようか
苦悩にあえぐ私は、どこに逃げればいいというのか[13]
主はあなたのことを何もかもご存じであられるにもかかわらず、へりくだってあなたの次元まで身をかがめ、ご自分のもとに来るようにと乞い願っておられます。主はこう言われます。「わたしに来て聞け。そうすればあなたの魂は生きることができる。」[14] 神の言葉はこう述べています。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」[15]—バージニア・ブラント・バーグ
2017年9月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
音楽:マイケル・ドーリー
1 Os Guinness, Impossible People (Downers Grove: IVP Books, 2016), 45.
2 1 ペテロ 3:15.
3 ローマ 1:24, 26, 28.
4 エペソ 6:13.
5 http://www.str.org/article/when-i-read-it-stopped-me-cold-mentoring-letter-october-2016#.WJMft38o0fK.
6 ヨハネ 12:31, 16:11; 1 ヨハネ 5:19.
7 ヨハネ 17:14–15.
8 ローマ 12:1–2.
10 マタイ 16:26.
11 1 ヨハネ 2:17.
12 2 コリント 4:6.
13 “If I Gained the World, But Lost the Savior,” Anna Olander, 1904.
14 イザヤ 55:3.
15 ヨハネ 17:3.