福音書に登場する信仰の女性たち
Women of Faith in the Gospels
June 8, 2020
ピーター・アムステルダム
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イエスの宣教においては女性が重要な役割を果たしました。たとえも含め、イエスの教えの多くにおいて、女性の登場人物が、信仰をもって神に応える良き手本として描かれています。不正な裁判官のたとえでは、やめもの粘り強さが、答えがなかなか受け取れないように思えるときの、祈りと信仰の手本として用いられました。弟子たちは、主の再臨を待つあいだ、粘り強く神への嘆願を続けるなら、神は祈りに答えてくださるし、それは正しい裁きによって報われると教えられたわけです。イエスはその点を伝えるために、粘り強くがんばり続けた女性を例にあげられたのでした。
ルカ15章には、ある女性が銀貨十枚を持っていて、その一枚をなくし、それを見つけるまで家の中を注意深く探したという、なくした銀貨のたとえがありますが、それは、羊飼いが99匹の羊をあとに残して、いなくなった一匹を探し歩くという、いなくなった羊のたとえ(ルカ15:4–7)と対になっています。この二つのたとえにおいて、登場する男性と女性の行動はともに、さまよい出ている人を探し出す神の行動をあらわしています。イエスは、この二つの話のいずれの登場人物のしたことも、さまよい出ている人をいかにして神が探し出されるのかを示すのに同等に良い比喩であるとお考えになりました。そして、女性を例とすることによって、女性たちが共感できる形でメッセージを伝えられたのです。
マタイ13章を読むと、男性の役割も女性の役割も、神の国をあらわす例として同等に用いられうることがわかります。からし種のたとえでは、ある男性がからし種をまきます。それはとても小さい種ですが、成長すると大きな木となります。(マタイ13:31–32) すぐ後に続く、それと対になったたとえはパン種のたとえで、ある女性が三斗(三サトン)の粉にパン種を混ぜると、全体が膨らむというものです。(マタイ13:33) ここでもまた、イエスは男性と女性の働きそれぞれを、福音を伝える働きに結び付け、どちらも同等に意義あるものとされました。
思慮深い女と思慮の浅い女(賢いおとめと愚かなおとめ)のたとえは10人の花嫁付添人のたとえ(マタイ25:1–13)としても知られていますが、その中でイエスは何人かの女性(思慮深い女)をほめ、他の女性(思慮の浅い女)をとがめておられます。このたとえはタラントのたとえのすぐ後にあり、そちらのたとえでは、何人かの男性が報酬を受け、他の男性がとがめられています。タラントの話での審判基準は男性の働きであり、思慮深い女と思慮の浅い女の話での審判基準は待っている間に何をしたか、あるいはしなかったかというものです。すべての女性が花嫁を待つあいだ眠りにつきましたが、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と叫ぶ声を聞いたとき(マタイ25:6)、油を用意してあった思慮深い5人の女性は婚宴の部屋に入り、用意していなかった5人の女性は明かりを買いに行かなくてはならず、部屋に入れさせてもらえませんでした。イエスは審判について論じるのに、男性と女性両方の例を同等に用いられたのです。
ある日、エルサレムの神殿で座りながら、イエスは群衆がさいせん箱にお金を入れているのを見ておられました。多くの金持ちは、多額の金を入れています。そこにひとりの貧しいやもめが来て、少額の銅貨を二枚入れました。するとイエスは弟子たちをわざわざ呼び寄せ、そのやもめに注目させて、こう言われました。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。」(マルコ12:43) これは、自己犠牲の例として彼女を使おうとされたのだと解釈されています。また、弟子であることと財産との関係を強調しておられたのかもしれません。
四福音書すべてにおいて、イエスに従ってガリラヤを回ったり、エルサレムへ行ったり、イエスが十字架にかかるところにいたりした女性の一団について書かれています。
「そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。」(ルカ8:1–3)
マルコの福音書では、イエスの十字架刑の際にいた女性について、「イエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たち」と説明されています。(マルコ15:41) この節や福音書の他の75か所で「従う」と訳されているギリシャ語の言葉は、一般的に、弟子として従うことを意味します。ユダヤ人女性が家を離れ、ラビ(教師)とともに旅をするというのは前例のないことでした。社会的な地位の高い女性も低い女性もともに、イエスや男性の弟子たちと一緒に旅をして回るというのは、イエスがしたり言ったりされた他の多くのことと同様に、外聞の悪いことでした。しかし、外聞が悪かろうと何であろうと、この女性たちは弟子としてイエスに従っていたのです。
上記の節にあるように、イエスに従う女性の名前があげられるとき、通常はマグダラのマリヤの名前が最初に来ています。そこで、イエスがガリラヤで宣教を始められた時から死んで以降まで、イエスに従って仕えていた女性の中で、マグダラのマリヤが傑出した存在であったと思われます。ヨハンナはヘロデ王家の家令の妻で、富と名声のある人でした。スザンナについては、何も知られていません。
イエスの死を目撃したのは12弟子ではなく(そこにいたのは一人だけだったようです)、女性の友人や弟子であったのは、興味深いことです。四福音書すべてが、女性たちがそこにいたことを証言しています。(参照: マルコ15:40–41; マタイ27:55–56; ルカ23:49; ヨハネ19:25) ヨハネの福音書だけに、男性がそこにいたことが書かれており、それも女性に関係してのことでした。「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。』」(ヨハネ19:25–26)
マルコの福音書では、十字架刑の際そこにいた女性たちの弟子としての行動が三つ記されています。イエスがガリラヤにおられたときに従った。これは、イエスの宣教活動期間のほとんどを弟子として過ごしたということです。また、イエスに仕えた。そして、十字架刑の場や墓にいたことによって、イエスの生涯においてもっとも重大な出来事であるイエスの死、そして復活を目撃したということです。マルコは彼女らの弟子としての行動を記すことで、この女性たちがイエスの死と復活という出来事の証人として信頼できるということを示しています。
四福音書すべてが、空の墓を訪れた最初の者たち、そしてイエスがよみがえられたことを告げた最初の者たちは、女性の弟子の何人かであったことを報告しています。復活については、四福音書のうちの三つで、イエスが最初に女性たちに姿を見せられたことが書かれています。(参照: マタイ28:5–9; マルコ16:9; ヨハネ20:14,16)
最初期の弟子全員が、イエスの復活の証人であり、十字架刑のあとにイエスが生きておられるのを見ましたが、最初に主を見た目撃者は女性たちでした。墓が空であることを最初に発見したのが女性であると福音書作家たちが告げているということは、福音書の記述が真実であることを示す重要な根拠として挙げられることがよくあります。一世紀において、女性は一般に信頼できる証人とはみなされていなかったので、福音書の著者たちは、それが真実でないかぎり、最初の目撃者として女性に注目を向けたりはしないだろうからです。
イエスが女性と交流し、女性を弟子として受け入れ、教えの中で良き手本として、また忠実な証し人として強調されたことによって、女性が男性と平等に初代教会の活動に携わる礎が築かれました。それは1世紀における革新的変化となったのです。この概念はイエスの初期の弟子たちによって理解され、初代教会において奨励・実践されました。ペンテコステ以来、女性は教会において重要な役割を担うようになりました。それは、使徒行伝や書簡に書かれているとおりです。
初版は2016年5月 2020年6月に改訂・再版
朗読:サイモン・ピーターソン