あなたは誰の愚か者か?
Whose Fool Are You?
January 17, 2018
リンダ・クロス
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。‥‥もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」[1]
本当にこの節の通りであることが、私の人生で証明されています。御言葉や祈りに十分な時間を割くことによってイエスを第一に置こうと努めると、思いもよらなかった好機が訪れ、扉が開き、それらすべてが主の御霊によるものとわかるのです! 驚いたことに、人や状況に影響を及ぼすような数々の機会は、日常的な用事を片付けている最中に、しかも往々にして、自分が住んでいるスウェーデンの都市の、公共交通機関を利用中に訪れました。
そしていつも通り、ベビーカーに末の子どもを乗せて出かけていた時のことです。バス停に近づくと、明らかに酔っ払っているとわかる二人の男性に気づきました。一人は缶ビールの沢山入ったビニール袋を手に持っています。騒々しく不快そうな人たちに見えたので、最初は面倒なことにならぬよう、彼らからかなり離れたところに立っていました。
するとすぐに、「彼らと話しなさい!」 という主の声が聞こえ、自分が見た目や振る舞いによって、彼らを早まって判断していたことに気づきました。聖書には「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。[2] イエスは愛や関心を与える際に、相手の社会的立場や階級など、気にも留められませんでした。むしろ酔っぱらいであるとか、罪人たちとつき会っていると言われて非難を浴びたほどです。主は評判や安楽ではなく、愛を選ばれたのです。
主の導きに従うのは内心戦いで、ちょっと抵抗がありましたが、とにかくやってみようと思いました。二人に『誰かがあなたを愛している』というトラクトを一枚ずつ手渡し、これが素晴らしい日にしてくれますように、と言ったのです。
彼らは私の信仰や、どこの教会に属しているのかについて、沢山質問し始めました。私は、自分は教会には行かないけれど、聖書を読むことや、イエスとの個人的なつながりから、助けや力をもらっていると説明しました。缶ビールを持っていた方の人が、自分はこれまで、イエスの愛について語りつつも尊大に振る舞うクリスチャンたちに、何度も嫌な思いをさせられたと言い、「あいつらにはもう関わりたくないね」と付け加えました。
バス停はだんだんと人で一杯になり、彼らは救いに関する私たちの物珍しい会話に、黙って耳を傾けていました。私は正しく答えることができるよう、心の中で祈り続けました。
ついに無礼な方の男性がにやりと笑って、はっきりと聞こえる大きな声で言いました。「あんたのズボンの中に入らせてくれたら、イエスを受け入れるよ!」 クリスチャンに言葉を失わせ、恥じ入らせようというあからさまな手口に、思わず微笑んでしまいましたが、彼は私が答える前にため息をつき、「それか、ただ食いもんをくれよ」と言いました。
「最後に食べたのはいつ?」 私は尋ねました。
「ここ二日ほど、食事らしい食事をしてない」という答が返ってきました。一瞬沈黙があり、私はどうすればいいか教えて下さいと、主に求めました。これがこのさまよえる人に手を差し伸べて、主が心から彼を愛しておられることを示すために与えられた機会であるのはわかっていました。
「いいわ。今夜は家族のために、スパゲッティーミートソースを作るの。夕食前にここで会いましょう。温かい食事を持ってきてあげる。」 私がそう言うと、彼は嬉しそうに待ち合わせ時刻に同意し、その後は馬鹿にしたような態度を改めて、敬意を込めて接してくれました。
もうバスが来る頃で、あまり時間がなかったので、私は神が、彼のために祈ることを申し出るよう、導いておられると感じました。
「俺は酒で駄目になった。何度もやめようとしたんだが。」 彼は言いました。
私はそれを聞いて、以前読んだ中毒に関する記事を思い出しました。中毒は外因的なものなので、自分よりも強力な外的力によってしか克服できないというものです。私はそのことを彼に話して、「神がその力なのよ」と付け加えました。
そのメッセージを聞いて、それまで彼よりも優しく振る舞っていた飲み友達が、腹立たしげに怒鳴り始めました。「イエスにどうやってこいつが助けられるっていうんだ?」
けれども、私と話していた男性は、仲間を叱りつけて言いました。「おい、祈りに敬意を払えよ! この人が俺のために祈ってくれるんだ。」
彼の肩に手を置き、じろじろと眺めている群衆を前に、二人で頭を垂れると、御霊の大胆さが全身にほとばしるのを感じました。私は彼が救われ、イエスがどんなに自分を愛しておられるかを理解して、アル中を克服できるよう祈りました。
彼は心動かされ、涙声でこう言いました。「祈ってくれた時、心の中に温かいものを感じたよ。あんな感覚は初めてだ!」
バスが来たので、私はそれに乗り込み、彼は別れ際に「ありがとう!」 と言いました。
その夜、夕食を作り終えると、私のプレティーンの子どもが、「イエス様がその夕食に、二人分の食べ物を入れてほしがっておられると、強く感じる」と言うので、私たちはその通りにし、それにプラスチックのフォークやナプキンを添えて、バス停に向かいました。子どもたちが喜んで一緒に来てくれたので、嬉しく思いました。
私は果たして彼が、待ち合わせの時間に現れるだろうかと思っていましたが、ちゃんと来てくれた上に、今回は酔っぱらっていませんでした。私たちは誰もいないバス停の中で、イエスのいやしの力について、もう少し長いこと立ち話をしました。食べ物を渡す時に、「二人分の食事を入れるべきだと感じて、量を増やしたの」と言うと、彼は大声で「ありがとう!」 と言いました。「ルームメイトも俺と同じぐらい腹を空かせていたから、この食事を分けてやろうと思っていたんだ!」 わぁ、何という奇跡でしょう! 神はご存知だったのです。私たちはそこに、彼のお友達の分のトラクトも追加しました。
先ほどのトラクトを読んだかと尋ねると、彼は読んだと答えました。まだイエスを受け入れる決心はついていませんでしたが、神は彼の心に種を蒔かれたのであり、きっと私たちの祈りが、それに水を与えて成長させてくれるでしょう。
主は彼にハグするよう導かれたので、私はそのようにし、「イエスはあなたを愛しています!」 と言いました。
「こんなことしてくれる人、今までいなかったよ」と彼は答えました。
居心地の良い自分の領域から踏み出して、この男性に証しし、主の愛でその心に触れるようにとイエスに求められた時に、たとえ周りで人が見ていて、プライドを押し殺さなければならなかったとしても、喜んでその導きに従った結果を目の当たりにして、私は大いに励まされました。こういう体験をすると、たとえ主が何をするよう求められ、それが最初はどんなに難しかろうと、キリストのために敢えて愚か者になりたいという気持ちになります。[3] 「私はキリストのための愚か者である。あなたは誰の愚か者か?」というチャレンジは、今も変わらないからです。