私たちは主にあって何者なのか
Who We Are in Him
March 11, 2020
スティーブ・ハーツ
私にとって、霊的成長の最も重要で自由をもたらす側面の1つとは、キリストにあってのアイデンティティーを持って生きるのを学ぶことです。聖書には、キリストの体としての私たちが何者であるのかが明確に説明されている箇所が幾つもあります。 ローマ8:37には、「私たちは圧倒的な勝利者」だと書かれています。[1] 第1ヨハネ3:1は、私たちは「神の子なのである」と述べています。エペソ2:6は、神は私たちをキリストと「共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった」と述べています。私たちがこれらの聖句を信じることを選び、それらを神から直接頂いた個人的な約束として要求すればするほど、より自由に自分の召しを遂行し、より大きな満足が得られると言っていいと思います。
私たちの大勢が、キリストにあっての自分のアイデンティティーを真に知り、生きることを妨げているものの一つは、自分自身を他の人と比較し、あるがままの自分ではなく、彼らのようになろうとしてやっきになる傾向であると思います。誰かさんのような外見で、誰かさんのように行動し、誰かさんのように歌えるなら、またその人のように霊的な油注ぎの内を歩めるなら、もうちょっと幸せになれるのに、と考えるのです。
もちろん、他の人の手本に倣うべき時や場合もあります。とりわけその人たちが、より愛情深く、キリストのようになり、健康に配慮するよう、私たちを動機づけてくれる場合はそうです。私が言う問題のある傾向とは(私自身、それを克服できていないことを認めます)、むしろ実際の自分に不満を抱いているせいで、他の人たちのようになりたいと望んだり、そうなろうと努めることです。それはまるで、霊の内で誰かのアイデンティティーを盗んでいるようなものです。自分自身の特徴や能力によって歩むのではなく、他の人たちのそれらを身に着けることに夢中になってしまうのです。そんなことをすれば、それと引き換えに私たちが人生で持つよう意図されている喜びや幸せや自由が奪われてしまいます。
この不健全な傾向は、はるか昔の人類の起源に端を発しています。アダムとエバは園でヘビの誘惑に屈してしまいました。その時ヘビは彼らに、禁断の木の実を食べたなら、神のようになれると請け合いました。[2] これを聞くと、彼らはもはや、自分たちの生き方に満足しなくなりました。素朴で美しく汚れない世界で、この上なく幸せに暮らしていたというのに。神を知り、神と親密に交わって歩む代わりに、彼らは神のすべての知識が欲しくなったのです。そこで彼らはへびの論理を信じ込み、被造物は永遠に変わってしまい、二度と元には戻りませんでした。
イスラエルの民も、他の国々のようになりたいと、自分たちを治める王を欲しがった時に、これと同じ罠に陥りました。[3] サムエルが年老いて、その息子たちも父の足跡に従っていなかったため、イスラエルの民はそのような要請がもっともらしく、理に適って聞こえるよう努めました。しかし主は彼らの心を知っておられたので、サムエルにこう言われました。「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。」[4] 神によって他と分かたれ、選ばれた民としての、神から賜ったアイデンティティーを持っていたのに、イスラエルの民はそれでも満足せず、周りの他の国々のようになりたがりました。その結果、内面的な自由が奪われたばかりか、自分たちが比べていた国々の異教の神々を拝み、彼らの罪深い行為を真似始めた時には、その体も囚われの身となってしまいました。私たちもまた、キリストにあって自分が何者であるかに満足していないなら、不幸せや不満や限界に囚われてしまう可能性があります。
自分がどれだけ他の人々のようになろうとしていたか(具体的には歌唱や作曲といった分野において)に気づくまで、かなり時間がかかりました。一時期などは、特定のアーティストやシンガーの曲を初めて聴いて、それが気に入ると、そのたびに自分の歌を彼らのスタイルに似せて作ろうとしていたものです。人々はこれに気づき、こう言いました。「君はそのままでいいんだよ。自分の声で歌って、独自のスタイルで演奏するんだ。いつも他の人たちを真似しなくてもいい。」 この助言を受け入れると、私は自由を感じ、今日でもそれと同じ自由を味わっています。他のシンガーやミュージシャンから学んだ色々なことは、確かに助けになりましたが、今でも、イエスにもらった独自の声やスタイルを見いだし、それに磨きをかけ続けています。
人々をキリストに導こうと努めていた時にも、これと同じことを経験しました。福音伝道について自分に色々なことを教えてくれる人たちを真似ていたのです。彼らを尊敬していて、自分の人生への彼らの影響に感謝していることは付け加えておきたいですが、それでも直接御霊に出会った後は、もっとその声に敏感になり、他の人々にイエスについて話すためのもっと個人的な塗油を受けました。もはや他の人々の塗油の内を歩まなくてもよかったのです。他の人々の意見やアイデアは今でも助けになりますが、今は御霊が私のおもな教師であり導き手であり、御霊が導くところに従うことによって計り知れない自由を感じています。
神は私たちを、他の人と比べ合って人生を送るよう召されたわけではなく、ましてや他の人を真似るなどなおさらです。肉ではなく御霊に従って歩んでいる限り、[5] 私たちは自由にあるがままの自分でいることができます。私たちは神のかたちに造られているのですから。[6] 一人一人が「畏れ多いほどに驚くべきものに造り上げられ」ています。[7] その性格や賜物や召しは様々ではあるけれど、エペソ2:10は、私たちがキリストにあって何者であるのかを明確に述べています。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」[8]