あなたの手にあるそれは何か
What Is That in Your Hand?
May 12, 2015
引用文集
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「主は彼[モーセ]に言われた、『あなたの手にあるそれは何か。』 彼は言った、『つえです。』 また言われた、『それを地に投げなさい。』 彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。主はモーセに言われた、『あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。』 そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかでつえとなった。」—出エジプト 4:2–4
実り豊かな人生を生きたいなら、「あなたの手にあるそれは何か」という神の問いから始めなければなりません。どんなに大切なものであっても、それを捨てて、ことごとく神に引き渡さなければならないのです。それはモーセにとっての杖のように、大切なものかもしれませんが、私たちが手にし、管理してしているなら、それは蛇の隠れ場ともなり得ます。
燃える柴の傍らで、神はモーセにご自分の民をエジプトから解放するよう命じ、彼が手にしていた杖を地に投げるよう言われました。モーセの生業(なりわい)を象徴するその杖は、彼にとって必要不可欠なものだったことでしょう。それは地面に投げるやいなや蛇に変わったので、慌てて身をかわしました。モーセは荒野で40年間羊を牧してきたので、蛇の尻尾をつかんで持ち上げることが、きわめて危険な行為であると知っていました。そんなことをすれば、つかまれていない頭の方をもたげて、攻撃してくるからです。しかし、神を信頼して蛇を尻尾から持ち上げると、それは手の中で再び杖に戻りました。神はモーセに、危険な物事にはご自分が対応すると証明しておられたのです。私たちも、神にすべてを明け渡すなら、そうして頂くことができます。
私たちは長いこと自分の仕事に携わり、懸命に働いてきたかもしれませんが、それを手放して神に委ねることができるでしょうか。神はモーセに杖を返されたように、それを返して下さるかもしれませんが、その時それは、ちょうどモーセの杖が「神の杖」となったように、「神の御仕事」になるのです。神が返して下さるのは同じ仕事かもしれませんが、それはただ、新たな運営方法のもとで、新たな力によってなされるようになるのです。それでは、人間関係や経済や、勉学や野心や夢はどうでしょう。私たちはそれらを神の足元に置き、御心のままに扱って頂くでしょうか。
すべてを神に引き渡したからといって、万事が順調に運ぶとは限りません。きっと霊の戦闘の最前線に駆り出されることでしょう。しかし、私たちはパロにおびえたりはしません。紅海も私たちを阻むことができず、干ばつも私たちを止められず、アマレクびとも、私たちを打ち負かすことはできません。私たちはこの手に、モーセが持っていたのと同じものを持っているからです。数多くの奇跡を起こした、あの「神の杖」を。-チャールズ・プライス
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「あなたの手にあるそれは何か。」 神はモーセが、荒野で一人きりで羊を牧していた時に、そう尋ねられました。その時モーセは、沈んだ気持ちで半砂漠の山腹にたった一人で座し、羊の群れを見守りながら、なぜ自分は出て行って、エジプトで奴隷になっている自分の民を救い出していないのかと考えていました。80年間を無為に過ごし、今やその目標から、これまでにないほど遠ざかってしまったと。エジプトのパロになることもできたというのに、今はしがない羊飼いにすぎませんでした! 手にしているものが金の王笏(しゃく)ではなく、ただの木製の杖とは、何と敗北的な姿でしょう!
しかし、神は突然に語りかけて、こう言われました。「あなたの手にあるそれは何か。」 モーセはこう答えたも同然でした。「ただの木の杖です、主よ。こんな貧しく年老いた羊飼いになって、私が持っているものといえば、ただの杖と、見知らぬ人ばかりの異郷の地の荒野にいる、わずかの愚かな羊ぐらいのものです。私に何ができるというのでしょう、主よ。私はすべてを台無しにしてしまいました! どうしようもない失敗者で、取るに足りない存在です。パロの息子としてエジプトにとどまっていたら、王になれていたかもしれないのに。けれども、今の私は何者でしょう、主よ。数匹の愚かな羊を飼い、血縁者でもない人々の情けに頼って生きている、年老いた取るに足りない、貧しい羊飼いにすぎません。私はどうしようもない間違いを犯してしまったのですね。今あなたが私を信頼して任せて下さるものといったら、わずかの羊と、この古い木の杖が象徴する程度の権威なんですから。私はあなたの民の救出に失敗し、今ではもう手遅れです!」
私も同じような状況にいたことがあったので、モーセの気持ちがわかります。人生は終わりに差し掛かり、主のために何も大したことを成し遂げていないように感じていたのです。全生涯を費やして労した挙げ句に、見せられる成果といったら、自分の小さな家族と子どもたちぐらいのもので、路上でテント暮らし同然の生活をし、見たところ何の変哲もない木の杖を手に、ただその小さな群れを見守っていたのです。お金も仕事も家もなく、あるものといえば、神がその御言葉によって導くよう私に与えられた、それらの小さな命だけでした。
けれども、ある日神は語りかけ、こう言われました。「あなたの手にあるそれは何か。」 私は言いました。「何もありません、主よ! くたびれた古い木の杖と、数人の子どもたちだけです。」 すると、神はもう一度言われました。「あなたの手にあるそれは何か?」 それでも私は、こんな風に尋ねたのです。「どういう意味ですか、主よ。私の手に何があるかはご存じでしょう! この杖と、自分の小羊たち、それだけです! こんなもので一体何ができるでしょうか。こんな無に等しいもので! 私たちは取るに足りない存在です!」 ところが、主はこう言われました。「わたしの名によって行き、ただわたしがあなたを遣わしたと言えば、わたしはあなたの知らない大いなることをする。」 そして実際に、その約束通りにしてくださったのです。
モーセが握っていた、あの古い木製の羊飼いの杖によって、そしてアロンを代弁者として、神はエジプトにいた数百万人ものユダヤ人奴隷を解放する手段として、モーセを用いられました。世界最強の国家に災いを下し、紅海を分け、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの人々を、大いなる患難を通らせた後に、約束の地に導き入れるという形で、解放されたのです。モーセ自身は山上で死に、結局この世では、その夢が実現するのを目にすることはありませんでしたが。
小さな物事や、小さな人々を決して見くびってはいけません! ですから、あなたが今他の人々の世話に時間を費やしているか、自分の子どもたちの親であるか、他の人の子どもたちの親代わりをしているなら、そして自分の手にある聖書と、これらの人々だけで、一体何ができるのかと考えているなら、モーセのことを思い出して下さい。―デービッド・ブラント・バーグ [1]
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神はあなたの手にあるものから始められるでしょう。たとえそれがちっぽけな、取るに足りないものであったとしても。「モーセよ、あなたの手にあるそれは何か。」 これが、イスラエルの民を導いてエジプトの奴隷の身分から解放するという役目に、なぜ自分がふさわしくないかについてのモーセの数多くの言い訳に対する、神の答でした。燃える柴の傍らで、神がモーセに語られた言葉に見られる知恵は、今日も私たちの心に語りかけます。
その瞬間、モーセがどんな心境だったか、想像できるでしょうか。何しろその杖は、栄誉に輝いているとは、到底言えないような代物でした! そんなものがパロの宮廷で、どんなインパクトを与えることができるというのでしょう。その杖には際立った点など、何一つありませんでした。けれどもお分かりでしょうか、神が塗油されるなら、平凡なものも力を帯びるのです。
神があなたの手に置かれたものを、神に捧げなさい。「あなたの手にあるもの」とは、お金や所有物や、影響力や才能や能力といった、あなたが管理し、自分の意のままにできるものです。あなたが差し控え、その手に握り続けているものは、あなたがどんなものを心にかけているかを、はっきりと示します。神の子よ、 あなたが握っているものを手放しなさい。あなたの父なる神は、ご自分があなたの手に置かれたものを用いようと、待っておられます。
サムソンは持っていたロバのあご骨で千人を殺しました。ルツは畑で拾い集めた麦を持っていました。ダビデは石投げと小石を持っており、それでペリシテびとの強者を倒しました。名もない少年は、5つのパンと2匹の魚を持っていました。女はイエスに塗るための油で満ちた、石膏の壺を持っていました。私たちの誰もが、その手に何かを持っています。私たちが持っているものを手放すなら、神がその御手にあるものを解き放たれます! 神はあなたの手にあるものに塗油しようと、いつでもその気で待っておられるのです。
天の父なる神よ、わたしはイエスの御名によって御もとに参ります。私の手に何があるかをお示し下さい。それをあなたに捧げる覚悟はできています。あなたが人生で私にしてほしいと望まれることは、何でもします。今日、世界に違いをもたらしたいのです。私がすでに持っているものに宿る力を、見せて下さい。そうすれば、私を取り囲む数々の問題への解決策となることができるでしょう。どうか私が持っているものに油を注ぎ、私がすでに自分にあるものを用いて戦うことができるよう、助けて下さい。イエスの御名で、アーメン。-リサ・ビヴェア [2]
2015年5月アンカーに掲載。朗読:デブラ・リー。