マラの水
The Water of Marah
August 14, 2018
引用文集
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「[彼らは]マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。」—出エジプト 15:23〈新共同訳〉
試練に遭う時、私たちは3つの道のいずれかを歩むことができます。「なるようになるさ」という態度を取ることもできますが、そんなことをしても神との関係は、少しも改善されません。苦々しい気持ちや恨みを抱くこともできますが、それでは神との関係を悪化させてしまいます。あるいは、神には目的がおありなのだと信じて、神により近づくこともできるのです。
神が試練の時期に働きかけて、目的を成就される最たる例の一つが、マラの苦い水に見られます。紅海を渡った後、イスラエルびとはついに自由の身となりましたが、今や暑いシュルの荒野で、苦しみ喘いでいました。3日目に、遠くの方にきらめいている何かが見えました。急いで近づいてみると、それは水でした。彼らはそれを飲みましたが、その水は苦く、不満を抱いた人々の非難の矛先は、またしてもモーセとアロンに向けられます。
出エジプト記15:25にはこうあります。「モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。」 主はその場で人々にあることを宣言され、それを次のような言葉で締めくくられました。「わたしは主であって、あなたをいやすものである。」 解毒剤が一本の木だったというのは、興味深いことです。このような苦い水を中和してくれる木など、存在しないからです。多くの聖書解説者は、これをキリストの十字架の予表であると見なしており、聖書の中には、キリストの十字架をいやしの手段と関連づけている箇所があります。「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」[1]
砂漠環境の専門家ジェイミー・バッキンガムは、『A Way Through the Wilderness(砂漠を抜ける道)』と題された本の著者です。彼は、マラの水にはマグネシウムが豊富に含まれており、その強力な下剤効果によって、人々がエジプトから持ってきていたかもしれないアメーバや寄生虫や、致死性の細菌の大半が消滅しただろうと書いています。またマグネシウムを含むドロマイトと呼ばれる薬品成分は通常、極端に暑い天候において、心臓の細動や筋肉のけいれんを制御するために用いられるそうです。神は彼らの器官を清め、砂漠を抜ける長く困難な旅に備えさせるために、ぴったりの薬をお与えになったのです。
イスラエルびとが荒野で最初に留まった地は、絶望の地などではありません。神はその地で彼らに、医療効果のある水をお与えになったのです。彼らはその水を飲み、その後12の泉と70本のやしの木があるエリムにやって来ました。そして、新鮮な水が豊富にある、その安らぎに満ちた地に寄留しました。
私たちの誰もが苦い泉を訪れますが、それは毎回、神が祝福を賜る一手段であり、そこで神は、私たちがキリストにあって休息し、豊かに満たされ、必要物が供給される、それぞれの「エリム」へと導かれるよう、働きかけて下さるのです。—チャールズ・プライス
私をマラと呼んで下さい
ルツ記においても、違った状況でマラという言葉が見られます。ナオミと嫁のルツはどちらもやもめで、ナオミの生まれ故郷であるイスラエルへと戻った時、村の女たちは、長いこと姿を見なかった友を迎えて挨拶しますが、ナオミは彼女たちにこう答えました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」[2] ナオミの悲嘆と、愛する者の相次ぐ死は、彼女の本質である魂に、「苦み」を生じさせました。主はボアズとルツの愛の物語を通して、その苦みがいやされるよう助けられました。彼らの息子オべデは、ナオミにとって息子のような存在でした。[3] そしてオべデは成長し、ダビデ王の祖父となったのです。
マラという言葉は、苦みがそれによって毒される水や人生の有用性を台無しにするのだということを思い起こさせてくれます。神の恵みへの信頼を捨てて、自分の限られた力だけに目を向ける時、私たちは苦みを抱くことがあります。へブル12:15はこう警告しています。「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」 私たちは苦しい状況に面すると、イスラエルびとのように、神の御手が自分たちの人生に置かれていることを忘れてしまいます。人間の性格的欠点を天の父なる神のせいにし、間違いを犯されたと言って、神を責めさえするのです。[4] マラ(苦み)のせいで水が飲めなくなったように、私たち自身の人生におけるマラも、私たちの有用性を奪い、私たちが神の御国のために実を結ぶことを妨げます。しかし、神は水をいやされたし、私たちが神の指示に従う時に、私たちをもいやすことがおできになります。[5]—gotquestions.orgより
水のいやし
この町の人々はエリシャのところに来て、「御覧のように、この町は住むには良いのですが、水が悪く、土地は不毛です」と訴えた。彼は、「新しい器を持って来て、それに塩を入れなさい」と命じた。人々が持って来ると、彼は水の源に出かけて行って塩を投げ込み、「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』」と言った。エリシャの告げた言葉のとおり、水は清くなって今日に至っている。—列王記下 2:19–22〈新共同訳〉
エリシャが見つけた苦い泉を思い出して下さい。そこの水は、マラの水と同様に苦いものでした。そして、エリシャは塩を投げ込むことによって、奇跡的にその水を甘くしました。どうやらこの甘い水が湧き出る素晴らしい泉は、アブラハムの時代からずっと苦かったようです。その後エリシャがそこを訪れた時にも、まだ苦かったのですから。
おそらく、神がエリシャに教えられた、水を甘くする方法は、何らかの化学的な奇跡だったのでしょう。奇跡は必ずしも、超自然的なものとは限りません。それらはただ、私たちが知らない神の法則に則った現象であり、神がその法則を当時の人々の何人かに示されたのです。神はそれらの水を甘くされ、それ以来ずっと、ヨルダンの丘陵のふもとから直接湧き出ている甘い泉や湧き水は、非常に有名です。—デービッド・ブラント・バーグ
苦い水を甘くする
シュルの荒野で、イスラエルびとたちには、水がありませんでした。マラには水がありましたが、それは苦かったため、飲むことができませんでした。‥‥
このような絶望的状況の中で、人々は苛立ち、モーセと言い争いました。‥‥つらい試練の時期には、真の信者たちさえもが苛立ち、疑い、つぶやきたい気分になります。けれども、私たちはあらゆる試練において、思い煩いを主に委ね、主の御前で心にあることを注ぎ出すべきです。そうすれば、従順な意思や、良心の安息や、御霊の慰めが、最も過酷な試練を、耐え易く、喜ばしいものにさえしてくれるでしょう。
モーセは人々が怠っていたことをしました。すなわち、主に呼ばわったのです。そして神は恵み深くも、彼らに供給して下さいました。神はモーセをある木へとお導きになり、モーセはそれを水に投げ入れました。するとすぐに、水が甘くなったのです。この木をキリストの十字架の表象であると言う人もいます。それがすべての忠実な人々のために、災いという苦い水を甘く変え、患難に遭っても喜べるようにしてくれるからです。‥‥
神は名医であられます。私たちが健康に保たれているなら、それは神のおかげであり、いやされるなら、それも神の御わざです。神は私たちの命であり、寿命そのものです。自分たちが滅亡を免れ、敵から解放されているのは、主の僕となるためであることを忘れないようにしましょう。彼らはエリムで良い水を、しかも十分なだけもらいました。神がひとときの間、ご自分の民にマラの苦い泉の傍らに幕屋を設けるよう命じられたとしても、それが常に彼らの宿命であるとは限りません。悩みに遭っても、弱り果てることのないように努めようではありませんか。—マシュー・ヘンリー [6]
2018年8月アンカーに掲載 朗読:サイモン・ピーターソン