キリストの愛のうちを歩く
Walking in the Love of Christ
September 30, 2024
ピーター・アムステルダム
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第1ヨハネ書には、「神は愛である」という短くも深い言葉が記されています。(1ヨハネ4:8) ヨハネはさらにこう説明しています。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(1ヨハネ4:9)
旧約聖書には、「神は愛である」という表現は見られないものの、その全体を通して、神の愛について書かれています。旧約聖書で神の愛を表すために最もよく使われるヘブル語の言葉は「ヘセド」で、「揺るぎない愛」、「いつくしみ」、「誠実な愛」、「恵み」などと訳されています。この言葉は194回出てきますが、そのうちの171回は神の愛を指して使われています。[訳注:以上は、英訳聖書で使われるヘセドの訳語を日本語にしたものです。和訳聖書では、「いつくしみ(慈しみ)」「恵み」などと訳されています。本記事で引用する聖句中の「いつくしみ」は、全てヘセド、つまり「揺るぎない愛」のことです。]
神がモーセに姿を現した際、ご自身について次のように言われました。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施 … す者。」(出エジプト34:6–7) この箇所では、神がご自身について説明するにあたり、「揺るぎない愛(いつくしみ)」という言葉を2回用いられました。このように古代ヘブル語において同じ言葉を繰り返すのは、強調を表しています。旧約聖書の随所で、神はご自身の揺るぎない愛が「千代にわたって」また「とこしえからとこしえまで」のものだと語っておられます。(申命記7:9; 詩篇103:17)
創世記からマラキ書に至るまで、神は誠実に、また永遠に愛してくださる方として描かれています。そして、新約聖書は「神は愛である」ときっぱり明言しているのです。イエスは新約聖書全体を通して、父なる神から人類への愛として描かれています。ヨハネ3章16節にはこうあります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
イエスは地上に現された神の愛であり、イエスを愛し信じる者たちに、ご自身の教えに従うよう命じられました。それによって、私たちがその愛のうちにとどまり、またそれを他の人たちに示せるようにです。(ヨハネ15:9–10) 私たちがイエスの愛のうちを歩くのを助けるために、イエスは助け主を送ってくださいました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」(ヨハネ14:26) そして、私たちの人生における聖霊の臨在の実の一つは愛です。(ガラテヤ5:22)
「愛」と訳される言葉は幾つかあり、それぞれが新約聖書のギリシャ語原文では異なる意味を持つことを理解するのは助けになります。ギリシャ語で愛を指す言葉の一つは「エロス」で、恋愛感情を表しており、新約聖書には出てきません。愛と訳されるもう一つの言葉は「フィリア」で、愛おしいという気持ち、深い友情(友愛)、人間愛、思いやり、兄弟愛を表すのに使われています。3つ目の言葉は「ストルゲー」で、家族の成員に対する愛(家族愛)、特に親から子どもへの愛に関係しています。
4つ目は、愛を表すために新約聖書で最もよく使われている言葉で、「アガペー」です。聖書の使われ方で分かるように、それは神の愛を意味します。たとえば、第1ヨハネ4章8節の「神は愛である」という箇所のギリシャ語原文では、アガペーが使われています。神がされることは全て、その愛が動機であり、元になっています。アガペーは、イエスが最も大きな戒めとして強調された、私たちが神と隣人に対して抱く愛や(マルコ12:30–31)、キリストが愛するように他の人たちに示す愛をも指しています。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
福音書や書簡で読む愛(アガペー)は、自分よりも他の人が必要とするものを優先することを選び、不便を被ってもそれに甘んじ、他の誰かの益のために自らの意思で不快なことに耐え、しかも、何の見返りも期待しないものです。善意や忠実さ、献身、力強い品性を示す愛です。イエスが表しておられた愛であり、私たちがイエスと共に永遠に生きることができるよう、ご自身の命を犠牲にする動機となった愛なのです。
アガペーの愛は、イエスが表された犠牲的な愛であり、私たちもそれにならうよう求められています。パウロがこう書いているとおりです。「あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」(エペソ5:1–2)
それは、私たちクリスチャンが互いに示し合うべきであるとイエスが言われた愛です。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34) それはまた、私たちを迫害し、侮辱する者に対して示すべき愛でもあります。「わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)
英語欽定訳聖書では、アガペーを「charity」[慈愛、また慈善心や寛大さを表す言葉]と訳している箇所が多くあり、それが寛大で無私の愛のことだと理解しやすくなっています。それは、自分のためにしてほしいことを他の人にしてあげることです。イエスの愛にならえとは、気楽にいられる親しい仲の人や、あなたから愛されるに値すると思える人だけを愛していればいいということではありません。あなたが、その人はあなたの愛に値しないと感じたり、相手の考え方や信じ方、行動の仕方に同意しなかったりするような場合であっても、その人を愛するということです。何と言っても、イエスは私たちに、敵を愛し、自分を不当に扱い侮辱してくる人を愛しなさいと言われたのですから。
使徒パウロは、愛(アガペー)とは何であり、何をなすのか、そしてどのように表されるのかを明確に示して、愛の形を表現しました。それは、よく「愛の章」と呼ばれる第1コリント13章に、次のように書かれています。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(1コリント13:4–7)
英語NIV訳聖書では、次のように他の表現がなされており、それはこの箇所の理解を深める助けになります。「愛は礼を失せず、自分勝手にならず、容易にいらだつことなく、悪いことをされても気にとめない。不正を喜ばないで、真理を喜ぶ。常に守り、常に信頼し、常に望み、常に耐え忍ぶ。」 (1コリント13:4–7) 英語NLT訳聖書では、このようになっています。「愛は自分のやり方を押し通そうとはしない。… 不正を喜ばず、いつでも真理が勝利する時に喜ぶ。愛は決してあきらめず、決して信仰を失わず、常に望みを抱き、どんな状況でも耐え抜く。」(1コリント13:4–7)
これは、実行に移すには努力を伴うようなリストですが、もしイエスにならう者となることを願うのであれば、また、キリストの愛のうちを歩き、主の愛とあわれみと優しさを体現したいならば、よき試金石(基準)となります。イエスは、この愛を日々の生活でどのように示せばいいのか、幾つかの実例を挙げておられます。「あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」(ルカ6:30-31)
イエスはさらに、こう言われました。「人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。」(ルカ6:35-38)
第1ヨハネ書は、愛に重点を置いて、イエスが命じられたのと同様のことを告げています。「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(1ヨハネ3:18) さらに、こうあります。「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(1ヨハネ4:12)
ヤコブはその書簡の中で、私たちの信仰とキリストの愛を行動に移す具体的な例を挙げています。「ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」(ヤコブ2:15-17)
イエスを反映した生き方をしようとするなら、キリストの愛を持ち、それを示すことが極めて重要です。主や他の人への愛が、私たちをよりキリストに似た者とするのを助ける特性の土台なのです。あわれみ、赦し、親切、善意、優しさ、忍耐は全て、愛に根ざしています。クリスチャン的性格を育み、パウロが書いたように古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着けるという決意も、愛に根ざしています。(エペソ4:20–24)
私たちが神を愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちはその愛を土台として、もっと主のようになり、私たちの人生が日々触れる全ての人に対して主とその愛を反映したいと思っています。たとえ私たちの反映する輝きが、実際の主の姿をぼんやりと示すものに過ぎないとしても。しかし、その輝きがどれだけぼやけたものだったとしても、この暗い世界を照らすものであるし、また、私たちを造り、愛し、救ってくださった方に栄光を帰すものです。私たちはその方と共に永遠の時を過ごすのです。
私たちがもっとイエスのようになろうと努めることで、一人ひとりがよりキリストに似た者となって、他の人にイエスをよりよく反映できますように。
初版は2018年9月 2024年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス