憂鬱なバレンタインデー
Valentine’s Day Blues
February 10, 2016
テイラー・ホイジントン
1コリント13:13は、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」と言っています。
一年でももっとも気分ののらない日まで、あと4日です。
私だけでなく多くの「シングル」の人にとって、バレンタインデーは、幸せいっぱいで心待ちにする日ではありません。たいてい、自分が「シングル」だということが強調される日であり、他の人はどうかわかりませんが、店の飾り付けやTVコマーシャルその他、バレンタインデーだと囃し立てているのを見ると、どこかそういうのがない所に隠れてしまいたくなります。バレンタインデーになったら、何かの女性向け映画でも見つけて、ソファーで毛布にくるまり、チョコレートで悲しみを紛らわせたいと思うのです。
でも今日、あるものに心を揺さぶられました。それは、第一コリント13章の最後の節です。「…このうちで最も大いなるものは、愛である。」 一番大切とみなされるものの中でも、愛がそのトップになったわけです。
愛…それこそ私たちが渇望するものであり、誰もが切実に必要とするものです。
愛について考え、バレンタインデーについて考えた時 (私たちの文化では、バレンタインデーはラブラブの日になっていますが)、「私たちは、愛についての見方や、愛されることや愛を表現することの本当の意味を混乱したものにしてしまったのではないか」と思わずにはいらせませんでした。
聖書全体において(特に新約聖書)愛について色々な節があります。夫婦が愛し合うべきだという節もあれば、神の愛について語る節もあります。さらには、敵を愛しなさいという節もあります。聖書を通して様々な形の愛について語られていますが、一番大いなる愛の形はこれでしょう。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」[1]
私はこう自問しなければなりませんでした。「愛が最も大切なものリストの1番上にあるならば、私たちの文化がその愛を表現するために選んだホリデーを、私はどうしてそんなに嫌うのだろうか?」
この質問について考えていると、自分の問題に気づきました。私は誰か愛するための人を探していたのではなく、私を愛してくれる人が現れるのを待っていたのです。
誰かが自分に求愛し、私のことを求め、大切にし、慕ってくれることを切に願っていたのですが、私は誰を愛していたのでしょうか? 私は誰を心から愛しているのでしょう?
私が読んだ、愛についての聖書の節について考えてみると、誰か自分のことを愛してくれる人を探しに行きなさいと言っている節は1つもないことに気づきました。聖書の中の愛に関する節はすべて、他の人々を愛する人になりなさいと語っています。というのも、神がまず私のことを愛してくれたからです。
私の肉は簡単に、「私は? 誰が私を愛してくれるの? 誰が私に求愛してくれるの?」という自己中心的な質問で頭がいっぱいになってしまいます。このような自分のことばかりの質問で頭がいっぱいだと、他の人に愛を与える力がなくなってしまいます。
自分が愛に渇いている状態で、与えるものなど何もないと感じることがあります。でも気づいたのですが、私は自分の力で他の人を愛するのではありません。私が人を愛するのは、神がまず私を愛してくださったからです。[2]
私の頭には新しい質問が浮かびました。誰かに愛してもらうことばかり考えるのをやめて、日々他の人を愛することに焦点を当てることにしたら、バレンタインデーのことを今ほど大嫌いと思うことはなくなるのではないだろうか? 私が愛してもらいたいのと同じぐらい他の人たちを愛することに焦点を当てるなら、どんな結果になるだろうか?
もしあなたがバレンタインデー大っ嫌い人間なら、今年は私と一緒に新しい見方をしてはどうでしょう。愛されることばかり考えるのではなく、神が私たちを愛したように他の人々を愛することに関心を向けるのです。それは大きな違いをもたらすことでしょう。
愛する天の父
私はよく、あなたが私を愛したように他の人を愛するべきだということを忘れてしまいます。出て行って、あなたが私を愛するように、他の人も私を愛するようにしなさい、と教えられてはいません。主よ、他の人々を愛するのを助けてください。私がいくら与えても、あなたはそれ以上に与えてくださるので、私が愛を与えるならば、あなたが私のことを世話してくださると分かっています。あなたはすでに私のことを完璧に愛してくださっています。あなたがまず私のことを愛してくださったから、私は愛することができます。あなたの完璧な愛を感謝します。イエスの名前で祈ります。[3]