答えられない祈り
Unanswered Prayer
February 27, 2019
デービッド・ミズラニー
ガース・ブルックスが歌う、こんな美しい歌があります。
時折私は神に感謝する、
答えられない祈りを。
覚えていなさい、
いと高き方と話している時には
ただ答えて下さらないからといって
気に掛けておられないわけではないことを。
答えられない祈りは
神の最も素晴らしい贈り物の一つなのだ。
これは、祈り求めたものを全部与えられるわけではないことを、感謝することについての歌です。最終的には神が、それよりもずっと良いご計画を持っておられるかもしれないからです。それを受け取った時に私たちが、そちらをもらった方がずっと嬉しかったと気づくような何かを。ご存じかもしれませんが、その歌は既婚者の男性とその妻が、男性の「高校時代の恋人」とばったり出くわしたという内容です。男性はその再会によって、自分が以前かなり深く彼女に恋していたことや、祈って神に「彼女を私のものにして下さい」と求めていたことを思い出します。しかし、最後には神が自分の望みを叶えられなかったことを、心から嬉しく思います。神がその代わりに彼のために用意しておられ人、つまり自分の妻に感謝しているからです。
この歌は多くの人の信仰にとって重要な論点である、答えられない祈りに焦点を当てています。人々は、神が「祈りに答えて下さらなかった」、あるいはもっと実際的に言えば、「願いを聞き入れて下さらなかった」ことで、神を信じるのをやめてしまいたくなることがあります。それは神を誤解しているからであり、私たちは、自分の願いや望みのことばかり考えていると、いとも簡単にそうなってしまいます。そして、神に願い求めたものをもらえなかったら、それは神が祈りに答えられなかったということだ、と考えるようになるのです。神は祈りが聞こえたのに、何もせずにただぼんやりと自分たちを見下ろしておられたのだ、とか、あるいはご自分の「すべきことが記された巨大な本」をどこかに置き忘れて、自分たちのことを忘れてしまわれたのだ、と。
もし神が実際そのようなお方で、私がそのような神に仕えているとしたら、私の信仰も揺らいでしまうことでしょう! 感謝すべきことに、神は決してそのような方ではなく、常に祈りに答えて下さいます。常に、です。即座に「イエス」と答えて下さることもあれば、「待て」と言われることもあり、そしてこれが重要な点なのですが、時には「ノー」と言われることもあります。
しばしば、「ノー」と言われることが、私たちにとって最善である場合もあり得ます。それは神が、二番目の最善であるとご存じであられる何かから、私たちを守って下さっているのです。神が時にノーと言われるのは、それが実際に長い目で見て、私たちに最大の益をもたらすものと相反しているからです。ちょうど良い親がそうであるように、神はたとえそれが私たちを悲しませたとしても、「ノー」と言うことが私たちにとって最善であるとご存じなのです。
聖書にその一例があります。イエスの親しい友人であるラザロが、病気で死にかかっていました。マリヤとマルタは、来ていやして下さるようにと、イエスに嘆願しました。彼女らは主に信仰があり、非常に重要で切迫した必要を抱えていたのです。別に、比較的取るに足りない願いごとをしたわけでもありません。それは事実上、生死に関わる状況だったのです。それなのに、主は「イエス」と言って、助けに駆けつけることをされませんでした。状況の全体像を心に留めておられたのであり、彼らに与えられた答が、長い目で見て最善であるとご存じだったのです。イエスの到着が遅れたために、ラザロは死にました。しかし、イエスが実際にそこに出向いて、到着される頃には、ラザロが死んでから4日も経っていたにもかかわらず、主はその時もなお、全体像を見据えておられました。そして人々が信仰を示した時、イエスはそれに報いて、彼らが求めていた答を与えられたのです。
ですから私は、神が「ノー」と言われる時にも、神への信仰を揺るがされないよう学んでいます。祈った通りにならなくても、祈りが「答えられなかった」わけではありません。ただ「自分」が思い描いていたような答を受け取らなかったというだけのことです。
神に何かを求める時、もちろん私たちは神に「ノー」と言われたくありません。もしそれを望んでいないなら、与えて下さるよう求めたりはしないでしょうから。私たちは毎回神に「イエス」と言ってもらいたいのです。あるいは、せめて「待て」と。私たちは切実に願うあまり(たとえそれが最も正しい動機から来る、最善の願いであったとしても)、神が全体像を視野に入れておられることをしばしば忘れて、神への信頼を弱めてしまいがちです。しかし時には、「ノー」が答えであり、しかも最善の答である場合があるのです。
なぜそうなのかを理解するのが難しいこともありますが、理由を考えるのは、決して私たちの務めではありません。私たちの務めは、神が最善をご存じであると信じることです。理解する代わりにただ信じ、神が「イエス」と言われる時にも、「待て」と言われる時にも、また「ノー」と言われる時にも、神が確かに祈りを聞かれたのだと確信し、認識することには、時として他のどんなものよりも信仰を要するのです。