問題だらけの時でもイエスを信頼する
Trust Jesus in Troublous Times
May 2, 2022
マリア・フォンテーン
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歴史を通じて、神の子どもたちの多くにとってそうであったのと同様、問題だらけの時期というものは明らかに、私たちの周りの世界につきものです。けれども良い知らせとは、問題のことをくよくよ思い悩む必要はないということです。皆さんもご存じの通り、主は決して私たちを離れず、捨てないと約束しておられるのですから。
どんな類のものであれ、問題が起こる可能性に直面すると、それが何を意味するのかや、これから何が起こるのかを心配して、圧倒されそうに感じるかもしれませんが、そのように反応する必要はありません。もう一つの選択肢とは、用いることができるよう主が与えておられる解決策を探し出し、良い面を喜ぶことです。
どんな状況にあってもイエスに信頼を置くという、意識的な決断を下さなければなりません。問題の先を見て、イエスがそこからもたらすと約束されている、素晴らしい益に目を向けることを、選ばなければならないのです。はっきりとわかるような祝福だけでなく、そのような時期がもたらしてくれる知恵や経験やより強い信仰といった、一見隠れているように思われる数々の祝福を探して、それらを祈り求めましょう。
神は、問題があるにもかかわらず、あるいは問題があるからこそ、たった今ここであなたを取り囲み、御腕に抱いて運んで下さっています。神は今日の問題という荒野においても、将来訪れる砂漠のような時期においても、ご自分と共に歩めるよう「道」を設け、私たちを養うために、ご自分の御霊という生ける水が流れる「川」を与えると約束されているのです。[1]
あなたには常に、あらゆる状況をどのように切り抜けるかを選択する権限があります。地獄の全勢力を含む何ものも、あなたが自由意志によって下す選択を、止めることはできません。
問題から逃れようとしたり、それらについてくよくよと思い悩んでも、それらが人生に及ぼす影響が一層強まるだけです。思い悩んだからといって、それらを克服できるわけではなく、その状況にますます多くのストレスや緊張や悲しみが加わるだけなのです。ほとんどの場合、問題には数多くの良い面も入り混じっているので、それらを探すと決意し、反撃しなければなりません。たとえば、祝福ゆえに神を賛美することができます。
年齢や状況と関係なく、神はご自分に従う信者の一人一人に、数々の問題にもかかわらず、御心の時にそれを切り抜けさせて下さる神に頼りつつ、耐え忍び続けてほしいと望んでおられます。それらが現在の問題であれ、あるいは将来生じ得る問題であれ、神がすぐそばにおられると確信し、信頼してほしいのです。私たちはどんな重荷を負っていようと、慰めを得ることができます。
私のお気に入りの歌の一つにも、こう書かれています。「荷が重さを増す時、主はさらなる恵みを与えてくださる。労苦が増す時、さらなる力を送ってくださる。苦悩が増し加われば、さらに大いなるあわれみを賜い、試練が増し加われば、平安も増し加えて下さる。」[2] 神はすべての歩みにおいて、私たちと共に居て下さいます。決して私たちを離れることも、捨てることもされません。波に目を向けるのを拒み、イエスとその祝福に目を向けるなら、手の届くところに常に良いものがあるのです。
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信仰の目で状況を見るには
イエスの言葉
信仰とは、将来起こるかもしれないことに関する問題や恐れや思い煩いを、何らかの形で感じさせないようにするものではない。信仰は、まだ起こっていないことを乗り越えることはないが、それはあなたが必要とする時や、自分の手に負えない何かに直面する時には、常にそこにある。
ただわたしを信頼し、今この時にするようにと示されていることをすればいいだけだ。過去についてわたしに信頼しなさい。あなたはそれを変えることができないからだ。今日についてわたしにしがみついていなさい。あなたはわたしの愛を信じており、万事を共に働かせてあなたの益とするというわたしの約束を信じているのだから。将来についてわたしにすがりつきなさい。それは最終的には、わたしの手の内にあるのだから。
あなたはこの世のどんなものにも信頼を置くことができない。この世のすべてのものは、遅かれ早かれ期待を裏切るからだ。万事を共に働かせてあなたの益とする能力があるのは、唯一わたしだけだ。あなたはわたしが約束したことが実現するのを見るだろう。
たとえあなたの足が震えていようとも、構いはしない。あなたが自力で乗り越えるのではないからだ。また、自分にはわたしにしがみつく力がないと感じていても、わたしはあなたを放さないと約束した。
大勢がわたしの言葉につまずいて去って行った後、わたしが弟子たちに彼らも去るつもりなのかと尋ねると、ペテロはためらうことなくこう言った。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」[3]
彼はこう言ったも同然だった。「彼らがあなたにどんなことをするかについてのあなたのお言葉を聞いて、もう心配になっています。私にも同じことをされたらどうすればいいのでしょう。将来一番必要な時に、私が力を持っていなかったなら、どうすればいいのでしょう。しかし、たとえ今は恐ろしく感じていても、私はあなたに信頼します。あなたが真実であられるとわかっているからです。ですから、他にどんな選択肢があるでしょうか。私はあなたがどなたかを知っています。他のことは、ただそれが起こった時に解決すればいいだけです。あなたは今のこの時に、あなたと共に立つことができるよう、私を守られています。何であれ、起こるべきことは起こるでしょう。大切なのは、あなたが今日私をしっかりと掴んでいて下さるという事実だけです。」
そのしがみつくという姿勢は、あなたの信仰を日々強めることの重要な一部だ。他の人々が苦闘している時に彼らのために祈り、たとえあなた自身の手は震えていても、彼らのだらりと垂れた手を高く掲げてあげられるよう、自らを奮い立たせるために、わたしへの信頼を用いなさい。
信仰の核心とは愛であり、あなたがわたしに対して愛と信頼を抱くこと、また、わたしが愛の内にあなたと歩むことだ。それはわたしがあなたを決して離れず、捨てないという、疑う余地のない事実に信頼を置くことである。
(マリア:)人生における過酷な時期というのは非常に大変で、しばしば耐え難いものですが、立ち止まって、自分が一人で戦っているのではなく、他の人々もかつて同じような経験を通り、最終的にやり遂げたのだということに気づくなら、信仰が大いに強められます。
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あなたはこれを乗り越えることができる
マックス・ルケード
ヨセフの穴は、貯水穴という形で訪れました。あなたの穴は、診断結果や養護施設、あるいは外傷といった形で訪れました。
ヨセフは穴に放り込まれ、嫌われました。あなたはどうでしょうか。失業者の列に放り込まれ、忘れ去られてしまったのでしょうか。それとも離婚や裏切りや、病床や虐待の只中に放り込まれてしまったのでしょうか。
穴。そこでは人生の目標が、たった一つに絞られます。「抜け出して、二度と傷つかないこと。」 容易いことではありません。穴からはそう簡単に出られないものです。
ヨセフの物語は、好転する前にさらに暗転します。見捨てられた後に奴隷となり、策略にはまって、投獄されるのです。不意打ちを食らい、売り飛ばされ、不当な扱いを受けます。人々は約束をしても破るだけで、贈り物をくれると言っても、結局はそれを撤回しました。心の傷を沼地に例えるなら、ヨセフはエバーグレーズ(フロリダ州の大湿地帯)で生涯重労働をする刑に処せられたようなものです。
しかし、彼は決してあきらめませんでした。苦々しい気持ちになっても、報復しませんでした。怒りを抱いても、それは決して憎しみには至らず、決して心をかたくなにしませんでした。そして彼の決意は、確固として揺るがなかったのです。
彼は単に生き延びただけではなく、成功を収めました。晩年を迎える頃には、ヨセフはその時代において、二番目に大きな権力を持つ人物になっていました。彼の人生から学ぶことのできるレッスンとはこうです。「神の御手にかかれば、邪悪な企みも最終的には益となる。」
ヨセフは、穴での生活がひどいものであることを、誰よりも真っ先に証言することでしょう。けれども、そのように不快な穴にも一つ良いところがあるのではないでしょうか。上を見上げざるを得なくさせるということです。
上におられる方が、ここ地上に降りてきて、あなたに手を貸して下さらなければなりません。神はヨセフにそうして下さいました。そしてあなたにも、適切な時期に、適切な方法で、同じことをして下さるでしょう。
2019年と2020年に出版されたマリア・フォンテーンの著作からの編集 2022年5月に改訂・再版 朗読:デブラ・リー