試練はあなたを強くする
Trials Can Make You Strong
October 29, 2015
マリア・フォンテーン
オーディオ・ダウンロード(英語) (7.1MB)
人生で誰もが、不当な扱いによる苦しみや拒絶の痛み、愛する人を失う悲しみなどを味わうものです。そういう経験により、心の傷とでも言うべきものが残ることがあります。私たちが遭遇する嫌な出来事の多くは、ちょっとした心の打ち身や擦り傷のようなものですが、時に私たちの大半が、心に深い傷や深刻なケガを負うものです。
体の小さなケガが、少し傷跡を残しても、しばらく痛むだけで終わるように、日々の嫌なことの大半は、一時的な「あざ」のような否定的思考や落胆が表れても、通常はじきに忘れられてしまいます。そういうのはやがて治ると確信しているからです。しかし、体のケガの程度が重いと、すぐにちゃんと手当のできる医者のところに行って、洗浄してもらったり、負傷箇所を守るために包帯を巻いてもらったりします。場合によっては、完治するまで何度か医者に診てもらう必要があります。
これは、私たちの精神的な傷も、信仰と祈りと適切なケアによって癒されることを表しています。けれども、過ちをゆるすことを通して、しっかり洗浄され、癒されるようにしないなら、あるいは、傷を隠して助けを求めようとしないなら、傷は苦い根や疑いや憤りによって化膿してしまいます。それは広がっていき、人生観や、幸福、信仰、他の人たちとの関係、さらにはイエスとの関係をも侵しかねません。
苦い根は最初は小さいのですが、時が経つにつれ、傷の化膿のように悪化し、広がっていきます。洗浄して取り除くようにしないなら、私たちの人生の色々な面にじわじわと広がっていき、喜びを、恨みの暗いどろどろしたものに変え、他の人との団結を孤立へと変えてしまいます。だから、体のケガでも重傷の場合にはすぐに適切な処置をし、化膿のリスクを避けるべきなのと同じように、精神的な傷についても用心し、苦い根の化膿が始まるのを防ぐべきです。
聖書は、人生で苦い根が根をはることのないよう気をつけなさいと教えています。「われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて」、[1] 「気をつけて‥‥苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」[2]
聖書は、信仰の内に成長した人からの助けや支援を求め、互いに過ちを告白し合い、互いに祈り合うよう励ましています。[3] 苦い根を取り除く時には、信仰や神の言葉に強い人からの助けを得ることが大切です。問題を打ち明けて祈ってもらい、神の言葉に基づいた助言をもらったら、次のステップは、ゆるし、前に進んで行くことです。そうすれば、自分にのしかかる否定的な感情からの真の解放を経験することができます。難題や困難によって、あなたの現在の物の見方を左右される必要はありません。神は、あなたが人生の否定的な部分を克服する道を開いてくださっているのですから。実際、神はあなたが克服することを望んでおられます。
聖書にはこうあります。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」[4] 過去はもう過ぎ去ったのですが、恨みや苦い根をもって過去に生きるなら、あなたは、現実にはもうずっと昔に過ぎ去ったものの囚人であり続けることになります。イエスとその言葉に浸り、主のやり方で物事をするようになるにつれ、過去にあったものの影は消え去り、あなたはより新しく造られた者となります。全てが一度に起こるわけではないですが、自分の意思を主の側につけていれば、苦い根からの自由や平安をもっと経験できることでしょう。
クリスチャンの人生とは、障害や状況の克服の連続であり、何ものによっても落ち込んだりしないということです。つまずきになる石を、歩みのための踏み石とし、信仰によって心も霊も癒され、主の愛によって健康が回復し、神の言葉を通して苦い根や恨みという束縛から自由になることです。そして、イエスに、あなたの思考を新たに変えていただき、人生における神の御心へと導いていただくことです。[5]
環境は私たちの人生にある程度、影響を及ぼすし、誰もが人生で幾度も困難や痛みを味わっています。しかし、主と主の言葉は、私たちの置かれた状況がどうであれ、それにどう反応するかを、私たち一人一人の責任だとしています。神は一人一人に自由意志と選択の自由を与えてくださったのであり、私たちが正しい決断をし、正しいステップを踏むことを求めておられます。
私たちはトラブルを避けることはできませんが、それにどう反応するかは私たちの選択次第です。多くの人は、人生で何度か大きな挫折を味わって来ました。おそらく、私たちが経験したものよりずっと大きな挫折である人もいるでしょう。でもそれに対する反応は人それぞれで、その結果、それぞれ異なったタイプの人となり、異なった人生を送ることになります。困難にもめげずに満足や充足感や喜びを見いだす人もいれば、絶望や欲求不満、怒り、憎しみに蝕まれてしまう人もいます。人生で困難を味わっても、それを克服した人は多くの場合、他の人たちが彼らの問題を克服する勇気や信仰を持つのを助けるといった点で、大きな影響力を持つことができます。彼らは、不可能に思われる状況をも超越して、困難や不正に直面しても勝利することができるんだということを証明しています。
神の言葉によれば、試練は私たちが強くなるのを助けてくれます。[6] 考えてみてください。人生において全く問題がなかったなら、自己満足してしまい、問題を克服すべく戦うことから得られる人格の強さを得ることはないでしょう。また、同じような経験をする人たちのことを理解し、憐れみを持つこともできないでしょう。[7] 人生でどれほどイエスが必要であるかを発見し、たとえ誰にも助けを求められなくても、イエスの内には、いつでも力を見いだすことができると悟る時、私たちは美しい奇跡を経験しますが、何も問題がないなら、その奇跡を経験し損ねてしまうかもしれません。神が私たちを救出し、進み続けるための答えをくださることから得られる喜びを経験することもないでしょう。
神は、私たちの喜びが満ちあふれることを望んでおられ、[8] そのような喜びの鍵の一つは、私たちに降りかかろうとする苦い根や恨みの重荷を脇にやって、神が神の時に、万事が共に働いて益になるようにしてくださると信じることにあります。
初版は1992年12月。2015年10月に改訂・再版。
朗読:デブラ・リー。