神の御前にいればそれで十分
To Be in God’s Presence Is Enough
January 11, 2023
スティーブ・ハヌマン
私が最近経験している事をお伝えしたいと思います。
定期健診を受けたところ、侵攻性前立腺がんだと診断されたのです。バイオプシーの結果、がんの悪性度はレベル9だと判断されました。9と10は最も危険で転移する可能性が非常に高いものです。PSA(前立腺特異抗原)の数値も非常に高く、ほぼ20でした。これらのことから、突然ステージ3のがんと診断されたのです。この記事を書いている時点では、がんが他の器官に転移しているかどうかまだわかりません。
これは全く突然で予想外の出来事だったので、本当にショックでした。正直な所、かなり健康だと感じていたので、自分にはまだまだ時間があると勝手に思っていたのです。よく言われるように「自分がこんな事になるなんて!」という状況でした。
この突然の診断がきっかけで、私は自分の人生を振り返ることになりました。
私は、こう自問しました。「この世からもうすぐいなくなるとしたら、自分の人生にはどんな意味があったのだろう。他の人にとって、少しでも何かの意味があったのだろうか?」
突然この状況に追いやられて、非常に真剣にさせられました。こうした質問を自分に問うてみる時、悲しいかな、自然と他人から見た自分という見解から問うていることに気づいたのです。私達は、人に認められたいと思うようにかなり刷り込まれています。少なくとも、私の場合はそうだと自覚しています。
経済的な成功等、世間でいう明らかな「成功」がないと、私は自分を「敗者」で、自分の人生など無駄であり、失敗だとほぼ自動的にみなしていたのです。
もうすぐ死ぬかも知れず、自分が人生で価値あることや永続することは何もしなかったと知ること、正直これこそ、人が感じる最悪の気分かもしれないですね。自分の人生には、はっきりと見せられるようなものがないと感じるのは、この上なくひどい気持ちです!
私はパニック状態で、粉々に砕かれ、深く悲しみ、まったくの孤独を感じながら床に就きました。
翌朝目覚めると、私は即座に祈り始めました。すると人生についてのあのような見解が、重く不必要な重荷を創り出していることに気づきました。必死に祈った後、私は1つの事に気づいたのです。それは、神様はご自分の子供達をあるがままの姿で心から愛しておられ、私達が自分を愛する以上に、神様は私達を愛して下さっているということです。神様の私達をご覧になる見方は、世間が私達を見る見方とも、自分が自分を見る見方とも全く異なっています。
神様の愛に満ちたものの見方からすれば、私達の生命はとても美しく、感謝することに溢れています。それはこの世界での地位が何であれ、関係ありません。
神様の観点からすれば、私たちは神様の愛によって造られ、どんなことがあっても愛されています。「自分は取るに足らない」とか「世界に何の影響も与えなかった」などということは一切ないのです。神様の愛に満ちたものの見方からすれば、私達の命が取るに足らないなどというのはあり得ません。神様は私達を造られました。私達が取るに足らないなんてことがあるでしょうか? 私達は神様の奇跡の1つなのです!
祈った後、私はその重荷を手放し、この世界で残された自分の時間を神様の愛に満ちた存在の中で過ごすことを選んでほっとしました。神様の御前にいるだけで十分です。十分どころか十二分です。
世間もインターネットもソーシャルメディアも、そんな事は教えてくれません。でも私は、たった今それを経験しているのです。体内に非常に侵攻的ながんを抱えながら。そして私はこの真実にたどり着きました。必要なのは、ただイエスの御前にいること。そうすればすべてが取り計らわれ、私達の人生は真の意味を持ちます。自分達にとっても、周りのみんなにも、永遠に。
キリストの愛には、失敗などありません。実際のところ、自分たちが成功と考えているような方法での成功もないのです。あるのはキリストのみ。そしてそれは、この世ともその称賛や拒絶とも全く関係ありません。
「世と世の欲は過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」(1ヨハネ2:17)
「人生は一度きり。それはすぐに過ぎ去る。残るのは、キリストのためにした事だけ。」(C・T・スタッド)
このような状況に直面してみて、こんな風に感じ、この事に気づけたのは、何と美しいことでしょう。自分が本当にキリストの御前にいることで、この世に対して自動的にインパクトが作り出されるのです。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)
私は自分が、自分の人生に対する世間の見解から解放される必要があること、また自分の人生には意味があったのかなかったのかについての自分の見解からも解放される必要があるとわかりました。ある意味、それらはすべてエゴなのです。それはすべてイエスであり、私が望めることがあるとすれば、それは主に対して忠実なしもべであったこと、どんな事があっても常にイエスに近く留まったということです。良きしもべとなるべく頑張ったし、イエスを愛し、自分が受けたすべての祝福に対して主に感謝するよう最善を尽くしたと言えると知ることで、今私には平安があります。
もちろん完璧ではなかったけれど、最善は尽くしました。自分の人生について心から言えることは、ただイエスに仕えることを望んできたということです。それ以外のことは、それほど重要ではないのです。
皆さん、自分個人がどんな影響を与えたかという重荷を捨て、ただ愛し、仕え、キリストの御前にいましょう。そうすれば、すべてがうまくいき、私達の人生も祝福されるでしょう。どんな達成事項があろうとなかろうと関係ありません。私達はそれでも祝福され、キリストにあって平安を持てるのです。
何とも素晴らしい気持ち、そして自由に感じます。重荷が取り去られたのです。
何が起ころうとも、私は自分の人生の真の意味は、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛することであり、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛することであって、これより大事ないましめは、ほかにない、ということを見出しました(マルコ12:30-31)。私はそれを残りの人生で実行することにしました。
確かに、私は突然のがんの宣告を受けました。でも、それと同時に、キリストの驚くべき恵みと憐みと愛のおかげで、私には平安があるのです。