すべての事には季節がある
A Time for Every Season
May 5, 2020
引用文集
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「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」—伝道の書3:1
これは人生の重要な教訓です。何事にも時があり、季節があるのです。今、あなたが人生のどの季節を生きているかにかかわらず、おそらくどこかで変化があると予想できます。なぜなら、ご存じの通り、季節というものは、来ては去るものだからです。
例えば、あなたが今苦労していて、とても辛い時期にいるとしても、季節は必ず変わるとわかっています。ソロモンは、先に引用した聖書の言葉を書いた時、私たちの人生の季節や変化の様について、いくつも例を挙げました。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
—伝道の書3:2–8
人は皆、生まれてきては必ず死にます。笑う時もあれば、泣く時もあります。しがみつく時もあれば、手放す時もあります。成功する時もあれば、失敗する時もあります。
聖書の最も美しい約束の一つが、この同じ章に書かれています。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」 今が良い季節であっても、困難な季節であっても、すべては神の時の中で美しくなっていくことの一環なのだと確信できます。「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」[1]
私は、「人は…見きわめることはできない」という部分が好きです。私は若い頃、どんな人生を送りたいかという計画やアイデアがたくさんありました。アイデアのほとんどは良いものでしたし、少なくともそう思っていました。私は、世界中で助けを必要としている場所ならどこにでも、すぐに駆けつけられるようになりたかったのです。孤児を助け、貧困を根絶したいと思っていました。けれども、神がお持ちであった計画を、私は見きわめていなかったのです。
私はまだその計画の進展を見守っているところですが、神のご計画は私が見きわめられる以上に広範囲に及ぶと知るぐらいには十分学びました。種まきの時も、刈り入れの時も、神がそこにおられることを知りました。そして、それ以外にも、どちらの季節も繰り返しているということに気づきました。
農業をする人は毎年春に作物を植えて、その秋に収穫します。毎年です。農夫は、今年もまた植えるのかといって腹を立てたりしません。イライラして、「去年やったばかりだ!」と大声を上げることもありません。このサイクルが毎年繰り返されることを知っていて、特に気にはしないのです。
そのようにして、私たちは皆、人生の季節と折り合いをつけるべきなのです。笑う時もあれば、泣く時もあり、種をまく時もあれば、刈り取る時もあり、与える時もあれば、受ける時もあります。悲しい時が来ると、普段はとても幸せだということを思い出すのが大変なこともあります。また、期待外れのことがあると、物事がとてもうまくいっていた時のことなど忘れてしまいがちです。
神にとっては、どの季節が他の季節よりも尊いということはありません。神は、私たちの人生のそれぞれの季節を使って、神のご計画を実現することができるのです。私は、物事がうまくいっている時には神が微笑んでくれていて、試練や不運は私が神の寵愛を失ったという意味だと思うことがあります。けれども、経験からそうではないことを学びました。卓越した画家は、自分の感じたことを表現するために、赤、黄、紫、青などの美しい明るい色を使いますが、それだけではなく、黒でコントラストをつけ、グレーで色調を調整し、白でぼかしを入れたりもします。
私たちは、偉大な画家である神を信頼しなければなりません。その作品自体が物語るように、神は何度も何度も、神の時には実にすべてが美しくなることを証明してこられました。あなたの人生にも、例外なく好調な季節もあれば、不調な季節もあります。そして、例外なく、主の時には美しくなると約束されているのです。—マラ・ホドラー [2]
人生の季節
人生はさまざまな季節で成り立っています。春夏秋冬の四季だけではありません。人生の異なる季節には、異なる感情や異なる責任が伴います。
どういう意味でしょうか。主は、私たちを形作り、物事に対処するのを助け、私たちを主が意図された通りのものに創造するために、私たちの人生にさまざまな季節を設けられました。主は季節を使って、主が善なる方であり、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」[3] ことを示されます。季節(良くても悪くても)は、私たちの心と信仰を捉えるための神の方法なのです。
それは私にとってどんな意味があるのでしょうか。神は、私の何かを変える準備ができた時に、人生の季節を変えてくださいます。もっと困難な季節もありますが、主はただ、私がそれぞれの季節を通して主を信頼することを望んでおられます。私がどんな季節を過ごしていても、神はいつも、御心の時にその季節を美しくすると約束なさっているのです。—NewSpring Church FUSE [4]
季節があることの神の理由
無神論者や不可知論者、あるいは宗教についてほとんど考えたことのない人が、「すべての出来事には理由がある」と語るのを聞いたことがあるのではないでしょうか。運命は星に支配されているという占星術の予言から、二人の主人公が一緒になる運命にあるというメッセージを込めた恋愛映画まで、運命という考えは私たちの文化に浸透しています。しかし、これらのケースや他のいくつかのケースでは、物事を支配しているとされているのは、人格のない、何らかの力なのです。滅多にないことではありますが、稀に、すべての物事を指揮し、目的を与えている、人格のある存在が言及されることがあります。
しかし、キリスト教哲学者や弁証学者の多くが指摘しているように、人格を持たない存在は何かに意味や目的を与えることはできません。目的とは、人格を持つ存在によって計画されたものと定義されています。人格を持った、思考する存在だけが目的を持って行動することができ、単なる力は、ただ存在するだけです。例えば、重力は意図を持って作用することがなく、ただ現実のものとして定められ、そこにあるだけであり、それ自体が計画したり、決められた目標や目的に向かって物事を導くことはありません。物事には、私たちが望むからといって最終的な目的があるわけではありません。万物を指揮する創造主である神がいなければ、すべての出来事に理由があるという考えは、単なる希望的観測にすぎません。
それゆえに、伝道の書3章のような聖句にアプローチする時には、著者が、目的を必ず成し遂げ、契約を守られるイスラエルの神の存在を前提に書いていることを、心に留めておく必要があります。[5] …伝道の書3:1-8で述べられている「時」と「季節」は、人生の始まり(「生まれる時」)と終わり(「死ぬ時」)、農業のサイクル(「植える時」と「抜く時」)など、人生のすべてを網羅しています。
人生は多くの点で、繰り返されるものですが、いつまでも同じところを回り続けるわけではありません。神が定められたゴールに向かって前進するのであり、その過程に、人格のある創造主が定められた時間や季節があります。「すべての出来事には理由がある」のではなく、むしろ「すべての出来事には神の理由がある」のです。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時があります。それは主がそうお決めになるからです。私たちの人生や世界は、人格のない運命によって支配されているのではなく、私たちがこの世で最も些細と思うようなことまで計画なさっている、恵み深い神によって支配されているのです。神は、御旨の欲するままにすべての事をなさるので、[6] 私たちは神が何事にも驚かず、神の計算が狂ったりしないと知って、安心していいのです。—Ligonier Ministries [7]
2020年5月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス
音楽:ダニエル・ソッジ