神と二人きりの時間
Time Alone with God
July 10, 2018
引用文集
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主と二人きりになることが、主をより良く知り、主との関係を育むための第一の方法です。あなたの配偶者や家族、友人、同僚とのコミュニケーションが、あなたが主とのあいだに持つコミュニケーションと同等のものであるとしたら、彼らとの関係はどれほど強いものとなるのか、自問してみてください。あなたの愛する人たちは、あなたが十分な時間を共に過ごしてくれていると感じるでしょうか。彼らとの交わりは、あなたたちの関係を素晴らしいものにしていると、彼らは感じるでしょうか。神との関係は、私たちにとって第一の関係であり、それを存続させ、素晴らしいものとしていくには、主と時間を過ごす必要があります。それは、相互関係を持っている他の人たちと時間を過ごす必要があるのと同様です。
交わりの重要な要素のひとつは、双方向のコミュニケーションです。相手の言うことに耳を傾け、話をすることによって、その人をより良く知るようになります。主との交わりも、何ら変わりありません。主に耳を傾けることと話をすることの両方をしなければいけないのです。神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことによってです。私たちが聖書を読み、書かれていることについて考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。—ピ-タ-・アムステルダム
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どんな関係にも、時間がかかります。神との関係は、多くの点で他の関係と異なってはいるものの、それでも原則的には同じです。聖書には、私たちと神との関係を概念化する助けになる比喩が数多く見られます。例えば、キリストは花婿、教会は花嫁として描かれています。結婚とは、二人の人生がひとつに合わさることです。[1] それほども親密になるためには、互いと二人きりの時間を過ごさなければなりません。また、父と子という関係もあります。近しい親子関係とは、親子が「水入らず」で、特別な時間を共に過ごすような関係です。愛する人と二人きりで過ごすなら、本当の意味でその人を知る機会ができます。神と二人きりで過ごすことも、それと同じです。神と二人きりになる時、私たちは神に近づき、集団でそうするのとは違った形で、神を知るに至るのです。[2]
神は私たちと、「二人きり」の時間を過ごしたいと願っておられます。私たちと個人的な関係を持ちたいのです。神は私たちを母親の胎内で個々に「組み立て」られました。[3] 神は私たちの人生を、非常に事細かにご存じです。例えば、頭髪の数といったようなものまで。[4] 神は一羽一羽のすずめを知っておられますが、「あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者」です。[5] 神は私たちがご自分のもとに来て、ご自分を知るようにと招かれます。[6] 神を親密に知ることを望む時、私たちは、切に神をたずね求めて、[7] 神と時間を過ごします。私たちは、イエスの足下でその御声に聞き入っている、マリヤのようになるでしょう。また義に飢え渇き、そして満たされるでしょう。[8]
おそらく私たちが、神と二人きりで時間を過ごす一番の理由は、聖書の見本に従うためでしょう。旧約聖書には、神が一人きりでみもとに来るよう、預言者たちを呼ばれる場面があります。モーセは燃える柴の傍らで、その後シナイ山で、神と二人きりで出会いました。その詩の数々から、神との揺るぎない親交が伺い知れるダビデは、サウルから逃げている間、神と交わりました。[9] エリヤが洞窟の中にいた時、神の臨在がそこを通り過ぎて行きました。新約聖書でイエスは、神と二人きりで時間を過ごされました。[10] イエスは実際、時には一人きりで神に祈るようにと、私たちに教えられました。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」[11]
ぶどうの木であられるイエスに寄り頼むには、[12] イエスと直に、親密につながっていなければなりません。枝がぶどうの木に直接つながっており、ぶどうの木を通して、他の枝ともつながっているように、私たちもキリストと直につながっており、そうして共同体を形成しています。私たちは、最もよく養われるために、神と二人きりで時間を過ごすと共に、集団として神を礼拝しているのです。神と二人きりで時間を過ごすことなしには、私たちの必要は満たされず、神が与えてくださる豊かな人生を、本当に満喫することはないでしょう。
神と二人きりで時間を過ごすなら、気を逸らすものは思いから取り除かれ、神とその御言葉に、思いを集中させることができます。神とつながっているなら、神が私たちを招いておられる親しい交わりを楽しみ、真の意味で神を知るようになるでしょう。[13]—www.gotquestions.orgより
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主と二人きりで幾らか時間を過ごし、再び満たされることなしに、他の人々に注ぎ出し続けることのできる人など、誰もいません。‥‥私たちは皆、休息して再び満たされ、主の御言葉の生ける水を飲み、祈りによる交わり、霊の内に甘美な愛の交わりをするという形で、もっと主と二人きりで静かな時間を過ごす必要があります。
主ご自身がこうおっしゃいました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」[14]—デービッド・ブラント・バーグ
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人生が粉々に砕け散ったように感じる時に、下すべき最も「霊的な」決断が何かを知るなら、驚くかもしれません。それは、神と二人きりになって、待ち望むことです。
聖書は哀歌の3:28で、このように告げています。「人生が重苦しく、耐え難い時には、一人で出て行き、静まっていなさい。頭を垂れて祈りなさい。質問を投げかけることなく、希望の訪れを待ち望みなさい。困難から目を背けてはならない。真っ向からそれに立ち向かいなさい。『ひどい』状況も、決して最悪というわけではない。」[15]
大抵の人は、どうすれば「静まっている」ことができるのかわかりません。私たちは常に不安に感じているし、神を待ち望むことが好きではありません。もどかしくて苛々するからです。私たちは、状況を自分で掌握していたいのです。
神を待ち望むとは、どういうことでしょうか。座って、何も語らず、ただ神に耳を傾ければよいのです。聖書を読んだり、祈っても構いませんが、何よりもまず、神の御前で静まりましょう。‥‥
神に耳を傾け、神が私たちのために用意しておられる希望にあずかりたいなら、神と二人きりになる必要があります。「静まって」、神の御声を聞く姿勢を整えるのです。
イエスもマタイ6:6で、こう言われました。「神の御前で、うわべを取り繕おうなどと考えずに済むよう、静かで人けのない場所を見つけなさい。できる限り飾り気のない、正直な姿で、ただそこにいなさい。そうすれば、あなたの関心は自分自身から神へと移り、神の恵みを感じるようになる。」[16]
神に対して正直になりましょう。そうすればあなたの関心は、自分の問題から、神の恵みへと移るでしょう。たとえそれが、どんなに圧倒されるような問題であっても。
哀歌 3:25–26にはこうあります。「主はご自身に信頼するすべての人に恵みを賜る。それだから神が救って下さるまで、忍耐をもって待ち続ける方がよい。」[17]
それは私たちも同じです。どんな障害に直面しても、神の時を待ちましょう。神はあなたが次の行動を起こす申し分のないタイミングを計っておられます。
ですから、待ち望み、耳を傾けて下さい。—リック・ウォレン [18]
2018年7月にアンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
音楽:マイケル・ドーリー
1 創世記 2:24.
2 ルカ 10:39.
3 詩篇 139:13.
4 ルカ 12:7.
5 マタイ 10:29, 31.
6 イザヤ 1:18[新改訳:「さあ、来たれ。論じ合おう‥‥」]; 黙示録 22:17; 雅歌 4:8.
7 詩篇 63:1.
8 マタイ 5:6.
9 詩篇 57.
10 マタイ 14:13; マルコ 1:35; 6:45–46; 14:32–34; ルカ 4:42; 5:16; 6:12; 9:18; ヨハネ 6:15.
11 マタイ 6:6a.
12 ヨハネ 15:1–8.
14 マタイ 11:28–30.
15 哀歌 3:28–30. 英語MSG訳より
16 英語MSG訳より
17 英語GNT訳より