命の水に渇く
Thirsty for the Water of Life
October 11, 2023
ジョージ・ソシク
イエスは、十字架につけられて息を引き取る直前、「わたしは渇く 」と言われました。(ヨハネ19:28) 喉が渇いていたのは間違いないと思います。しかし、その背後には、何かより深い象徴的な意味もあったのでしょうか。この言葉は、イエスが最も絶望と苦悩に満ちた瞬間に、父の臨在、すなわち、心を静めて慰めを与える命の水である神の御霊の臨在を切に渇望していたことを示しているのでしょうか。
かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。(黙示録22:17)
この命の水とは何なのでしょうか。どうすればそれを価なしに(ただで)受け取れるのでしょう。
聖書はしばしば、人生の苦難から解放されたいという切望を、肉体的・霊的な渇きに例えています。私たちが渇望する慰めと休息をもたらす「命の水」や「生ける水」のイメージが、神の御霊の比喩として使われているのです。
水は、人間の生命維持に欠かせないものです。水分は体重の約3分の2を占めており、以下に挙げるような、生命維持に必要な様々な役割を果たしています。
- 体温を調節する
- 老廃物を洗い流す
- 目や鼻、口の組織の潤いを保つ
- 臓器や組織を保護する
- 栄養素と酸素を細胞に運び、その成長と増殖を支える
- 関節を潤滑に保つ
- ミネラルや栄養素を溶解して、体内に取り込みやすくする
- 消化機能や脳機能を助ける
食べ物がなくても1ヶ月、あるいは2ヶ月でも生きられますが、水がなければ3日ほどしか生きられません。また、私たちは喉の渇きを感じるようにできており、それによって、水分補給の必要性を満たすため、飲み物、特に水を摂取したくなるし、その欲求はほぼ強制的に生まれます。
実を言えば、私は渇きがどんなものか、よく知っています。8年以上にわたって腎臓の人工透析を受けており、毎日喉の渇きと戦ってきたからです。どういうことか説明しましょう。腎不全があると、尿を体外へ出す機能が低下するため、私はもう何年も排尿していません。私が摂取した水分は、腎臓によって体外に排出されることがないため、週3回の透析治療の際に、血液中からろ過によって除去される必要があります。次の治療までの間に体が処理できる水分量や、透析中にろ過できる水分量には限度があるため、水分摂取量が制限されており、私の場合、1日に適度なサイズのコップ2杯の水分しか摂ることができません。そのようなわけで、私は常に喉の渇きと戦っているのです。私が飲み物を飲む時には、必ずそれを楽しみ、一滴残らず味わうようにしています。夏の間は特に、冷たい飲み物がもっと欲しくなりますが、そうするわけにはいきません。プールや川といった爽やかな水のそばにいると、たとえ一滴も飲むことはできなくても、爽快感を味わうためだけに、その中に飛び込んでどっぷり浸かりたくなります。
渇きとのこの絶え間ない戦いは、人間の有り様や、私たちが神を切に必要としていることについて、霊的な教訓をいくつか私に教えてくれました。私の体が水を飲むことで渇きから解放されようとするように、私の霊も神の御霊を飲むことで、日々の生活の苦しみから解放されることを切望しています。詩篇42篇の作者も、それと同じような心情を、次のように表現しています。
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。(詩篇42:1–2)
この詩篇に描かれているのは、神を切に必要とする気持ちを、命を与える水を求めて乾いた地をさまよう鹿になぞらえた、激しく苦悩する人の姿です。
あなたもそのように感じたことはありますか。あるいは、今そう感じているでしょうか。神が与えてくださる命の水、生ける水は、あなたに必要な解放をもたらします。そして、ありがたいことに、この命の水は無限に供給されます。主は、誰であれ望む者に、惜しみなく注いでくださるのです。イエスは、このことをどうしても理解してほしかったので、ユダヤ教の祭に押し寄せる群衆のただ中で、彼らに向かって大声で叫ばれたほどです。
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。(ヨハネ7:37–39)
この命の水、生ける水とは、神の御霊のことです。そして、私たちが弱く困難を抱えた時に感じる苦悩は、神の御霊に対する霊的な渇きを象徴しています。
では、どうやってこの生ける水を手に入れることができるでしょうか。イエスのもとに行き、イエスと二人きりになって、御言葉を読み、祈る時間を取ることによってです。そうすれば、リフレッシュされ、主の御霊の爽やかな水でたっぷりと水分補給することができます。
そして、ひとたび霊的に満たされたなら、先ほどの聖句にあるように、あなたの心から生ける水が川となって流れ出て、周りの人に注がれるので、彼らもまた、神の御霊によって自分の霊を新たにできるのです。