神を求めて渇く
Thirsting for God
October 28, 2020
デニス・エドワーズ
詩篇102篇を読んでいたとき、「私は荒野のペリカンのようになり」[1] という言葉に出会い、この詩篇の作者は一体何を言いたかったのだろうと思いました。
そこで思い出したのが、以前見たアフリカの野生動物ドキュメンタリーです。そのドキュメンタリーでは、春の大雨の後に、半乾燥地帯だった荒野に湖ができる様子が描かれていました。親ペリカンがやってきて巣を作り、新しくできた湖のほとりで子育てをします。しかし、夏の間、湖は徐々に干上がっていくので、やがて親鳥は、飛べるようになった子ペリカンを連れて飛び立ちます。けれども、生まれてからあまり経たず、まだ飛べそうにないペリカンは、消えていく湖のほとりにとどまることになります。やがてそのペリカンたちは、湖が再び砂漠や荒野になるにつれ、死んでいくのです。
詩篇の作者は、神に必死にすがりつく様を描いたと考えられるかもしれません。瀕死のペリカンが必死に水と助けを求めるように、私たちも深い苦難や悩みの時に神に助けを求めるということです。
この聖句から別の詩篇が思い出されます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」[2] ほとんどの学者はこの詩篇の作者がイスラエルのダビデ王であると考えています。ここでダビデ王は、神を求め必要とする気持ちを、水のある小川を探して喘いでいる鹿に例えています。私たちは人生において神の臨在を必要としています。私たちのうちには、幸福をもたらし、心にある辛い空白を埋めてくれる、神の霊が必要なのです。その空白は神が作られたもので、神にしか満たすことができません。
神の臨在を探し求める者に、主はこう言われます。「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば。」[3] イエスは山上の説教でこう言われました。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」[4]
詩篇42篇で作者は、いかに魂がうなだれているかを繰り返し述べています。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。」[5] 詩篇の作者は霊の渇きを感じていますが、そのままの状態に留まることはしません。神の憐れみと助けを求め、神がその子供たちにした約束を、神に思い起こさせているのです。彼はこう言います。「あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。」[6] ここで彼は、溺れる人がついに沈んでいくような気持ちになっているようです。けれども、こう続けます。「昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある。」[7] 彼は神のいつくしみを神に思い起こさせ、夜には神の言葉を自分の歌と祈りにしているのです。
最後に、彼は神への望みを失わないよう自分に言い聞かせ、「神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」という言葉で詩を締めくくっています。[8] あなたが落ち込んでいて、夜明けなど来ないと感じていても、神への望みを失わないでください。神はあなたを愛しておられ、これまでと同じように物事を解決してくださいます。希望を失ってはいけません。心をこめて神を呼びましょう。使徒パウロが賢明にもこう言ったように、神は私たちの誰からも遠く離れたところにおられるのではありません。「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」[9]
両手を上げて、すべて命ある者の神である主をほめたたえなさい。神はあなたを愛しており、どうにかしてあなたを世話してくださいます。神に信頼しなさい。神の約束を深く思いなさい。そうすれば御言葉は「わが足のともしび、わが道の光」となります。[10] それは、「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」からです。[11] また、使徒ペテロが言い表したように、「預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」[12] そうすれば、あなたの心と思いは、聖霊の力によって照らされます。
また、C・S・ルイスの言葉を思い出してください。「この世のいかなるものでも満たされることのない欲求が自分の内にあるとしたなら、その最もいい説明とは、私たちはこことは別の世界のために造られたということでしょう。」 そして、ヘブル書の著者はこう書いています 。「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」[13]
神を求め続け、渇望し続けなさい。そうすれば、神はあなたのために場所を用意してくださるでしょう。[14]
長い一日が終わり、旅が終わったとき、
私はその祝福された住まいで休息をとる。
そこでは愛する方が私を待っている、
人生の道の終わりに来たときに。[15]
1 詩篇 102:6.〈新改訳第3版〉
2 詩篇 42:1–3.〈新改訳第3版〉
3 エレミヤ 29:13.
4 マタイ 5:6.
5 詩篇 42:5, 11.
6 詩篇 42:7.
7 詩篇 42:8.
8 詩篇 42:11.
9 使徒 17:27–28.
10 詩篇 119:105.
11 箴言 4:18.
12 2ペテロ 1:19.
13 ヘブル 11:16.
14 ヨハネ 14:2 「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」
15 A・H・アクリー作詞の賛美歌『At the End of the Road』より