家を建てた二人の人
The Two Builders
April 21, 2025
ピーター・アムステルダム
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イエスは山上の説教で、ご自身の教えておられたことの重要性を理解させるために、弟子たちに一つのたとえを話されました。山上の説教は、マタイの記述もルカの記述も共に、この家を建てた二人の人のたとえで締めくくられています。一人の家は持ちこたえ、もう一人の家は倒れました。
マタイ7章24–27節では、家を建てた二人の人のたとえ話がこのように記されています。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。
これと同じたとえが、ルカの福音書の記述では細部において違いがあります。ただ、内容の違いは大きくありません。ある解説者たちは、マタイの記述は1世紀のパレスチナ地方における建築の方法を反映しているけれども、ルカは非ユダヤ人クリスチャンのために書いていたので、彼らにとって意味のある表現となるように、たとえをいくらか変えたのだろうと説明しています。
わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。(ルカ6:47–49)
マタイの福音書に登場する賢い人は、自分の家がしっかりとした岩の上に立てられることを確かめましたが、ルカの福音書に出てくる人は、岩盤が見えるまで表土を掘り下げて、その岩の上に家の土台を据えました。どちらも言いたいことは同じで、土台がしっかりしていれば、家もしっかりするということです。イエスの言葉を聞いて行う人は、この建築者のようです。
家を建てたもう一人の人は、岩盤まで地を掘り下げるという骨の折れる作業を避け、簡単な道を選んで、しっかりとした土台のない地面の上に家を建てました。ルカは、この人が土台なしで土の上に家を建てたと書いています。一方、マタイは同じことを砂の上に家を建てたと表現しています。
建て終わった時には、どちらの家もほぼ同じに見え、通常の状態では違いがわかりません。しかし、何と大きな違いがあったことでしょう。1世紀のパレスチナ地方では、雨季に戸外で作業するのを避けるため、ほとんどの家は夏のあいだに建てられました。夏は暑く、その時期に掘って土台を据えるのは大変なことでしょう。しかし、しっかりと倒れずにいる家を建てるには、その大変な作業が必要とされます。
二つの家の違いは、雨が降ったときにわかります。イスラエルの雨季は10月中旬から3月までで、雨の大部分は1月に降ります。大雨になると、丘や山で流水が発生することがあり、そうなるとその通り道にあるものがすべて押し流されてしまいます。
「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう」とイエスが言われたのは、そのことです。大雨と風と洪水が岩の上に建てられた家を襲っても、家はしっかりと倒れずにいました。土台のない家は、倒れてしまいます。どちらの家も、雨や風、嵐、洪水に襲われましたが、しっかりとした土台のある家だけが、被害を受けずに残りました。
ルカは洪水のことだけを書いており、激流がその家に押し寄せて倒したと言っています。こちらのたとえ方のほうが、ルカが書いている相手、つまりイスラエル国外に住んでおり、川が氾濫して洪水が起こるといったことを見慣れている人たちの心に響いたのかもしれません。どちらの記述でも、土台のない家は倒れています。
山上の説教で、イエスは弟子たることについて、また神の国で生きることについて、教えられました。そしてここで、イエスが教えてくださったことを実践するという大変な努力を払うよう、迫っておられるのです。イエスの話を聞いていたユダヤ人たちは、トーラー(律法)で教えられたことを聞いて実行するという概念はよくわかっていました。しかし、イエスがはっきりと言われたのは、「わたしのこれらの言葉」を聞いて行うことについてです。イエスは、ご自分の教えが聖書[現在の旧約聖書]の教えと同等のものであると言っておられたわけです。後になって、こうおっしゃっています。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」 (マタイ24:35; ルカ21:33)
イエスはこのたとえを話すことによって、聞いている人たちに選択を迫っておられます。聞いて無視するのか、それとも、聞いて実行するのか。イエスの教えを聞いて行う者は賢い人であり、行わない者は愚かな人だというのが要点でした。
嵐や洪水(大水)といった言葉は、旧約聖書では、「わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました」(詩篇69:2)のように、人生に降りかかる困難、また他にも神の裁き(イザヤ8:7–8; エゼキエル38:22)を描写するために、使われています。建物が倒壊することは、最終的には、裁きをあらわすものです。それと同時に、このたとえは、信者たちが人生で遭遇する試練についてのものと取ることもできます。
山上の説教の最後に話されたこのたとえは、イエスの弟子たちにあてたものであり(マタイ5:1–2)、同じく、イエスを信じ、従って行くすべての人にあてたものです。クリスチャンは、イエスの教えを自分の人生に当てはめることが期待されており、もしそうしない場合は、愚かな家の建て方をした人のようであり、その信仰も忍耐も、試験の時には落ちてしまいます。弟子の試金石、真の信仰の試金石とは、実践です。神の言葉を聞いても、従ったり適用したりしないのであれば、それは十分ではありません。イエスによれば、イエスが教えられたことに従って生きることをしない人は、自分の家を砂の上に立てた愚かな人のようになります。
私たちの信仰、また弟子としての資質は、堅固で崩れ落ちることなく、成長し、成熟していかなければいけません。岩盤まで掘り下げて土台を築くことが1世紀のパレスチナ地方において骨の折れる仕事だったのと同様に、イエスの教えを聞いて学び、それを毎日実践していくのは、かなりの努力を要することです。イエスの教えに生きることは大変ですが、それは信仰が強められて成熟し、人生の嵐に持ちこたえるようになるための土台です。そうするという強い決意があり、イエスの教えを聞いて実行する努力を払うのであれば、しっかりと倒れないでいた家を建てた、あの賢い人のようになることでしょう。
イエスの弟であるヤコブも、こう書いている通りです。「御言を行う人になりなさい。… ただ聞くだけの者となってはいけない。」(ヤコブ1:22)
2016年6月初版 2025年4月に改訂・再版 朗読:ジェリー・パラディーノ