宝と真珠
The Treasure and the Pearl
October 11, 2021
ピーター・アムステルダム
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マタイの福音書には、神の国について、他の福音書にはない短いたとえ話が2つ載っています。「畑に隠してある宝」と「高価な真珠」です。この2つは対になっており、神の国の価値と、それを見つけたときの喜びについて教えています。では、見てみましょう。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」[1]
歴史を通じて、金庫や銀行ができる前は、高価なものは地中に隠されていました。戦争が起こっているなどの理由で不安定な時代には、特にそうです。古代のユダヤ人歴史家ヨセフスは、紀元70年のエルサレム陥落直後について、次のように記しています。「それでも市内の廃墟の中から、少なからぬ財宝がいまだ見つけ出されていた。そのほとんどはローマ人によって掘り起こされた。戦争によって失われないように、所有者が大切に地中に保管しておいたものである。」 [2]
貴重品を埋めておくことは珍しくありませんでした。個人(あるいは家族)が貴重品をどこかに埋め、他の人にその場所を知らせないで本人が死んだ場合、それは誰かが見つけるまで埋まったままです。時折、他の人が隠しておいたそのような宝を誰かが見つけることがあり、見つけた人は大いに喜びました。
このたとえに登場するのもそういった人の一人です。たとえ話全般に言えることですが、このたとえも、要点を伝えるのに必要な情報だけが語られています。その人がどんな人であるのか、畑で何をしていたのか、どのように宝を見つけたのか、宝とは何だったのか、といったことは書かれていません。私たちが聞かされているのはただ、この人が宝を見つけてそのまま隠しておいたこと、またその宝のある畑を買い取ったことです。
宝が埋まっていることをこの人が畑の所有者に言わなかったことが道徳的に見てどうなのか、イエスは触れておられません。このような状況について書いてあるラビ文書によれば、宝を見つけた人に権利があるということです。たとえにはこの人が間違ったことをしていると書かれておらず、倫理的な問題を取り上げているわけでもないので、この人の行動は道徳的に間違いだとみなされるようなものではなかったと考えていいでしょう。たとえ話の要点は、この人が宝を見つけて大喜びし、持ち物を売り払ってその畑を買ったことです。
2つ目のたとえ話では、商人がいい真珠を探しています。古代において、真珠は非常に貴重な宝石であると考えられ、高い価値がつけられていました。紅海やペルシャ湾、インド洋で真珠が採られていましたが、金持ちにしか買えませんでした。1世紀の著作家、大プリニウスは、真珠が最も価値あるものであり、何よりも素晴らしい、天下の至宝であると書いています。[3] 新約聖書では、真珠が金や宝石と同じ部類に入れられています。[4]
畑で偶然に宝を見つけた人とは違い、こちらのたとえ話に出てくるのは商人です。使用されているギリシャ語の言葉からして、卸売りをしている人と見ていいでしょう。町から町へとめぐり、真珠を探しては購入し、転売する商人です。この人は最高品質で極めて価値の高い真珠を見つけたので、それを購入するために持ち物をすっかり売り払いました。
この2つのたとえ話に含まれているイエスのメッセージは、それぞれ違った類の人たちの共感を呼んだことでしょう。多くの人は、畑で宝を見つけた人の心境がよくわかったことと思います。その人は日雇い労働者だったかもしれないし、あるいは農夫や小作人、現場監督、家令、あるいはただの通行人だったかもしれません。持ち物全部を売って土地を買ったということなので、その人は極貧状態ではないけれど、かといって金持ちでもなかったことがわかります。また、金目のものを見つけようと考えていたわけではなく、宝探しをしていたわけでもありません。このたとえを聞いていた人の多くは共感し、自分にもそんなことが起きればいいなと考えたことでしょう。
2番目の人の話は、また別の類の人たちの共感を呼びました。このような仕事をしている人は、真珠の売られているところへ旅回りしていたことでしょう。真珠取引をしていたくらいなので、ある程度裕福だったのは明らかですが、この真珠は、それを購入するために自分の持ち物をすべて売らないといけないほど高価なものでした。イエスの話を聞いていた人で商売をしている人なら、経済的リスクを冒してでも、大金をもうけてトップに上りつめられるという望みに共感できたことでしょう。
隠された宝を思いがけず見つけたり、それを手に入れるために必要とされるリスクを冒したりするというのは、ワクワクさせられる話です。また、知らない土地に旅して、素晴らしい機会を見いだし、それを生かすというのも同様です。この2つの話は聞いている人の注意を引きつけ、莫大な富を発見するとどれほど嬉しい気持ちになるか、考えさせます。
価値あるものを見つけたいきさつは異なり、一人は思いがけず発見し、もう一人は懸命に探していたわけですが、どちらの人も、それを手に入れるために思い切った行動をとらなければいけませんでした。宝を見つけて話が終わりというのではありません。男たちは売ったり買ったりしなくてはならず、そうした行動をとって初めて、その価値あるものを手に入れられたのです。どちらのたとえでも、男たちはユニークな機会に直面しましたが、思い切った行動に出ないかぎり、その機会は失われていました。決断を下し、リスクを冒したことが、男たちの人生を変えたのです。
この2つのたとえ話の要点とは何でしょうか。天の国とは、ある人が何か大きな価値のあるものを見つけ、それを手に入れるためにリスクを冒すようなものだと、イエスは言っておられます。そこには、発見による興奮感、価値の把握、それを手に入れるための大きな代価の認識があります。その価値や、それを所有する喜びを考えると、すべての持ち物を売ってでも手に入れるに値するのです。
イエスの犠牲と復活により神の国に入り、神の子どもとなって、自分の内に神の御霊に宿っていただくことは、興奮させられることであり、大いに価値あることです。神の国を見つけることは、どんな代価を払うにも値するような宝を見つけることなのです。たとえ話に出てくる二人の男は、大いに価値のある宝を自分のものとするために、持ち物を売り払って畑や真珠を手に入れました。神の国も、すべてを与えるに値するものです。それにかかる高い代価は、計り知れないほどの益に照らして考えるべきです。
パウロもこう言っています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。」[5]
キリストを知り、神の国の一員となることは、他の何よりも大切に考えられるべきです。それを手に入れるためにすべてを売り払うという考え方は、神の国を自分の国とするには、大きすぎる代価などない、神の国に入ることは他のすべてを捨てるに値することだという真実をあらわしています。神を自分の人生の中心として生きるには代価がかかりますが、神の国の一員となることの計り知れない値打ちと永遠の喜びとを考えるなら、それだけの価値があることなのです。
初版は2015年7月27日 2021年10月に改訂・再版
朗読:ジョン・ローレンス
1 マタイ 13:44–46.〈新共同訳〉
2 ヨセフス 『ユダヤ戦記』 7:114–115.
3 Arland J. Hultgren,The Parables of Jesus (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2000), 420.
4 1テモテ 2:9.
5 ピリピ(フィリピ) 3:7–9.〈新共同訳〉