山上の説教(概説)
The Sermon on the Mount: An Introduction
March 27, 2025
ピーター・アムステルダム
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山上の説教(山上の垂訓)は、イエスの教えの中で最もよく知られているもののひとつです。イエスの教えの全容を表すものではありませんが、どのようにして神の国でクリスチャンとして生きるべきかの指針を与えています。この教えを理解して、人生において実行していくことの大切さは、説教の締めくくりの言葉に表れています。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。(マタイ7:24–27)
この説教は信者の品性を扱っており、私たちがどんな人間であるべきなのか、どんな態度や心持ちでいるべきなのかを表現しています。イエスの言葉は、神の統治のもとで生き、人生における神の臨在を意識する人たちが、この人生をいかにして旅すべきかを示してくれる地図です。イエスは、心の貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、憐れみ深い人、平和を実現する人はさいわいだと語っています。同じく「義に飢えかわいている人」と「義のために迫害される人」も「天国は彼らのものである」と語り、さいわいだと説いています。(マタイ5:3–10)
山上の説教(およびその他のイエスの教え)が告げているのは、イエスに従う人全員が新たな視点、つまり、神の国に入る前に持っていたものとは違う態度や物の見方を身につけるべきだということです。この説教は、神にとって大切なことに意識を向け、自分の考え方や見方、目標や世界観を神やその御心に合ったものとすべく調整するようにと教えています。イエスは私たちに、この世に宝を蓄えるのではなく、天に宝を蓄えるようにと教えています。(マタイ6:19–24) これによって、金銭や所有物、他の人との関わりや触れ合い、その他について、自分の態度を修正することになります。
イエスは説教の中で、自分の人生について思い煩わず、まず神の国と神の義を求めて、残りはすべて添えて与えられることを信じなさいと教えました。(マタイ6:25-34) イエスの教えを土台として人生を築く者にとって、自分の中心、焦点、人生の土台は、神です。実際にそうであるとき、神はその御霊と御言葉によって私たちを変えてくださいます。山上の説教には、神や他の人との関わりにおける指針となるべき教えが含まれています。キリストに似たような者となって生きるための礎石です。これらの指針を理解してそれに生きるなら、この人生の試練を通り抜け、正しい方角に向けて進ませてくれる羅針盤が得られたことになります。
学者の中には、山上の説教はイエスが別々に語られたことをひとつの講話・説教としてまとめたものであり、イエスが一回の集まりでこのような教えをされたことはなかったとみなす人たちがいます。それに同意せず、イエスはこの説教・講話を特定の一回の集まりで教えられたと信じている人たちもいます。おそらく、イエスは巡回教師として、ある時はこの説教全体、ある時はその一部、ある時は特定の事柄だけを教えられたのでしょう。巡回説教師は概して、様々な場所で同じことを繰り返して説いたり教えたりするものです。まったく同じ説教を幾度もするわけではありませんが、その時や場所、聴衆に応じて、それに合った箇所を教えます。
イエスはガリラヤの町々を巡り、周辺の異邦人地域にもいくらか足を延ばされたことが書かれています。神の国の到来はイエスのメッセージの主要なテーマだったので、それを繰り返し語られたのは間違いありません。この説教にある様々な事柄も、何度も繰り返し語られたと考えられるので、後になってから弟子たちがイエスの言われたことを思い起こすのはかなり簡単なことだったでしょう。一字一句違わないというわけではないかもしれませんが、少なくとも概念は正しく覚えていたのです。
この説教には二つのバージョンがあります。山上の説教(マタイ5:3–7:27)は107節あり、平地の説教(ルカ6:20–49)は30節あります。「山上の説教」というのは、392–396年頃にアウグスティヌスがマタイ5–7章について書いた注解書につけたタイトルですが、一般的には16世紀になるまで山上の説教と呼ばれることはありませんでした。[1]
山上というのは、次にあげるマタイ5章の1節から取られています。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。」(マタイ5:1–2) この説教はイエスの弟子にのみ与えられたように見受けられます。しかし、説教の終わりになると、マタイは次のように書いています。「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」(マタイ7:28–29)
ほとんどの解説者は、この群衆というのはイエスの教えや奇跡に関心を抱いた人たちであり、イエスが弟子たちに話しておられる間、群衆もそこにいてイエスの話を聞いていた、と説明しています。場所はたぶんガリラヤの丘陵地帯でしょう。説教の直前にイエスが多くの人の病をいやしておられたことが記録されているので(マタイ4:23–25)、ここで言う「山」とは丘陵地のことである可能性が高いのです。病気の人や痛みのある人がイエスの話を聞きに山を登ることはできないからです。
ルカの福音書には、イエスが山へ行き、夜を徹して祈られたことが書かれています。夜が明けると、イエスは弟子たちを呼び寄せ、12人を選び出して、使徒という名をお与えになりました。それからイエスは山を下り、大勢の弟子たちとともに平地へと行って、教えを聞き、病気を治してもらおうとして来ていた群衆に話をされました。それから、群衆の面前で、弟子たちに語られました。(ルカ6:12–20) 現代では、このバージョンを「平地の説教」と呼びますが、それはイエスが「平地に立たれた」と書かれているからです。(ルカ6:17)
ある解説者たちは、イエスが群衆の前ではっきりと同じようなことを教えられたことについて、2つの別々の記述があることは、この説教が歴史上の出来事であることを示していると指摘しています。どちらにせよ、この説教にあるイエスの教えの多くが新約聖書の様々な箇所にも記載されているので、それが特定のときに語られたものであれ、別々のときに説かれたものであれ、すべてイエスの教えであることには違いがありません。それが大切なことなのです。
この説教は、クリスチャンにとって重要です。なぜなら、御国に入ってイエスに従うようになった人の振る舞いがいかに変わるべきかについて、次のような点が書かれているからです。クリスチャンの人柄や振る舞いは、神や人類同胞との関係から見てどうあるべきか。他の人に対して良き影響となるように求められていること。神の律法に関連して私たちが持つように求められている義。神に対して示すべき献身。神に栄光を帰したいという願い。神との関係に照らし合わせた、他の人との関係。イエスが教えてくださったことをしようとする堅い決意。[2]
この説教は、私たちの人生が真に神を映し出すものとなれることや、神の「かたち」が私たちの中に、また私たちを通して見られるようにできることを教えています。永遠の世界でフルに生きることになる生き方を、今この時から生き始める方法を教えてくれるのです。私たちの存在を神の国と調和したものとするような、内なる霊の習慣を身につける方法を示しています。その習慣を今から行い始め、最終的な王国においても、それを続けていくのです。
山上の説教(および福音書の他の箇所)でイエスが語られた言葉、示された原則を理解して実践していくにしたがい、私たちの人生は次第に変わっていきます。よりキリストに似たものとなって、神の性質により近くなり、神の本質や特質をよりよく映し出せるようになるのです。要するに、それがキリスト教を実践するということです。
初版は2015年8月 2025年3月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
1 G. N. Stanton (1992), “Sermon on the Mount/Plain.”In J. B. Green and S. McKnight (eds.), Dictionary of Jesus and the Gospels, 736.
2 John R. W. Stott, The Message of the Sermon on the Mount (Downers Grove: InterVarsity Press, 1978), 24–25.