金持ちとラザロ
The Rich Man and Lazarus
September 9, 2024
ピーター・アムステルダム
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ルカの福音書にある金持ちとラザロの話は、二人の男(一人は金持ち、もう一人は貧乏人)の人生を比較しています。その人生とは、今の人生を超えて来世にまで至るものです。イエスは、まず金持ちの男の描写によって、このたとえ話を始めています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(ルカ16:19)[1]
この短い前書き的な部分にはあまり詳しいことは書かれていませんが、当時この話を聞いていた人たちは、そこから明確な印象を受けたと思います。この男はただ金があるというだけでなく、大金持ちしか買えない紫の衣を毎日身に着け、上等の麻布もまとっていました。紫の上着の下に白い麻の衣を着るというのは、かなりの有力者であることを表しています。その上、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたというのですから、おそらく毎日か、そうでなくとも頻繁に来客をもてなしていたのでしょう。この箇所や、物語の後の方で明確にされているのは、この男性が大金持ちで勝手気ままに振舞っていたということです。
「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(ルカ16:20–21)
たとえ話は簡潔なものなので、ここでもラザロについての情報はごくわずかです。けれども、彼の名前が述べてあるというのは、一つ際立った点でしょう。イエスのたとえ話で登場人物の名前が言及されているのは、ここだけです。ラザロという名前は、エレアザルあるいはエラザルというヘブル語の名前がギリシャ語化したものであり、「神に助けられる人」という意味です。
ラザロはとても貧しかったので、食べ物を乞わなければなりませんでした。彼はまた病気で、全身ができもので覆われており、歩くこともできません。1世紀のパレスチナでは、政府が貧しい人たちのケアを提供するような制度はなかったので、地域社会や個人がそのようなケアをしなければなりませんでした。施し、つまり貧しい人に与えられる金銭や食物が、ラザロのような人が生き残るための主な方法だったのです。
ラザロは毎日金持ちの玄関の前に座っていました。彼らが毎日そこでごちそうを食べるので、床に捨てられた食べ物を少しもらえるだけでも飢えがしのげるとわかっていたからです。犬が来て、ラザロのただれたできものをなめました。聖書の解説者のほとんどは、おそらくそれはうす汚れて不潔な野良犬であったと推測しています。
ラザロは惨めな状態でした。歩くこともできず、体中できもので覆われ、いつも空腹で、毎日金持ちの玄関の外に座り、食べ物を乞い求めていたのです。しかも、その金持ちは明らかにラザロを無視していました。ラザロは儀礼的に不浄な社会ののけ者だったのです。
たとえ話はこのように続きます。「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」(ルカ16:22)
「アブラハムのすぐそばに」いる、あるいは別の翻訳にあるように、アブラハムの「ふところに」いるというのは、死んだ後に祝福された状態にあることを表しています。この状態は、マタイ8章11節の「あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」という言葉に見られるように、族長たちと共に宴会の席につくことになぞらえられています。
一度も金持ちの宴会に呼ばれたことがなく、金持ちの食卓から落ちたものを食べるほど卑しめられた立場にあったラザロが、今や宴会の席で、信仰の父アブラハムのすぐそばに座っているのです。その一方、金持ちの男はそれとは非常に異なる悲運を味わいます。
「金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」(ルカ16:22–24)
名前が述べられていないこの金持ちも、死んで葬られました。葬式は疑いなく立派なものだったことでしょう。しかし、今や彼の存在は地上にいた時とは非常に異なるものとなっています。毎日ごちそうやぶどう酒をたらふく飲み食いしていた金持ちが、今では人に助けてもらわなければならない立場になったのです。金持ちは声を上げてアブラハムを「父」と呼びました。おそらく、アブラハムがユダヤ人の先祖であることを思い起こさせるなら、彼を助けなければという義務感をアブラハムが感じてくれるかもしれないと望んだのでしょう。
ここでついに判明するのですが、驚いたことに、金持ちはラザロの名前を知っていました。彼は明らかに、毎日必死の思いで家の前にいたラザロをよく知っていたようです。けれども、ラザロを無視したことへの自責の念は全く表さず、逆にアブラハムに対し、ラザロをつかわして自分を助けさせるように言いました。
「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』」(ルカ16:25)
アブラハムは厳しい口調で答えることをせず、むしろ金持ちを「子よ」と呼び、それから、自分の人生を振り返るよう言いました。生前に受けたありとあらゆる良いものと、それに対してラザロが味わったつらい経験を思い出すようにと。アブラハムは、金持ちが持っていた富は実際には彼のものではなく、神からお借りしたものであることを思い出させています。彼はそれを賢く使うべきだったのです。今、彼の地上の人生は終わり、その人生における行動ゆえに、彼はもだえ苦しんでいます。
一方ラザロは、今慰められています。つらい人生を生きてきましたが、今はもう苦しみや痛みはありません。もうないがしろにされていないのです。彼は死んだ後、いつまでも続く慰めを得ました。
アブラハムは次にこう言いました。「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」(ルカ16:26)
たとえラザロが憐れみの心で、指を水で濡らして金持ちの舌を冷やしたいと思ったとしても、それはできません。ラザロをつかわして苦痛を和らげるよう金持ちが頼むのはいかに馬鹿げているかを指摘する権利が、ラザロには十分あったでしょう。ラザロは毎日金持ちの玄関の前で苦しみながら座っていたのに、何ももらえなかったのではないですか。それなのにラザロは何も言いませんでした。このたとえ話全体を通して、何も言っていません。
すると金持ちはラザロに別の事を頼もうとしました。「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」(ルカ16:27–28)
金持ちは自分の苦境は何も変わらないとわかって、兄弟たちのところにラザロをつかわし、警告させてほしいと頼んだのです。金持ちは、自分の兄弟たちも困った人たちのことなどおかまいなしで、利己的な快楽を追い求め、自分と同じような生き方をしているので、同じ運命が彼らを待ち受けているとわかったのでしょう。
「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」(ルカ16:29) アブラハムは、文書となった神の言葉である聖書は、兄弟たちを正しい生き方と信仰に導くのに十分だと答えました。もし彼らがそこに書かれた言葉に「耳を傾ける」なら、つまりそれに従い、守っているなら、死んだ兄弟である金持ちの男のような運命にはならないということです。
この答えでも、金持ちは納得できません。人々が自分の言いなりになることに慣れていたからです。そこで、議論がましい反応を見せています。「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』」(ルカ16:30)
皮肉なことに、金持ち自身が、その「死んだ者」であるラザロがアブラハムと一緒に食卓でくつろいでいるのを見ているのに、悔い改めの兆しを全く見せていません。それなのに、彼はラザロが自分の兄弟たちの前に現れれば、彼らが悔い改めると思い込んでいるのです。
アブラハムは、そうはならないと彼に言います。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:31)
金持ちは、兄弟たちにしるしを与えてくださいと頼みました。はっきりしているのは、金持ちは、兄弟たちが神の言葉が教えることに従って生きておらず、しるしを受け取らなければ自分と同じ状態に陥るとわかっていたことです。しかし、アブラハムは、彼らにはしるしは与えられない、なぜなら彼らには神の言葉があり、それで十分だからだと言っています。彼らは、聖書に書かれていることから、正しい生き方をし、貧しい人たちをどう扱うかについて、神がなんと言っておられるかを十分知っていました。
イエスの話を聞いていた人たちの多くは、最初、金持ちは神から祝福されており、ラザロは裁かれていると思ったことでしょう。なぜなら、彼らは繁栄とは神の祝福であって、繁栄していないのは神の裁きだと信じていたからです。しかし、必ずしもそうではないということをイエスは述べておられます。金持ちであるというのは必ずしもその人が神の祝福を受けているとか、その人が正しいというしるしではないし、あまり財産を持ってない人や病気や貧困に苦しんでいる人は神から裁きを受けているということでもありません。
このたとえ話は、裕福な人が取るべきではない行動も示しています。金持ちは、ラザロのことも、ラザロが抱える必要のことも知っていたのに、彼に対して無関心でした。助けることができたのは明らかなのに、そのための行動を全く取らなかったのです。物乞い、それも特に、見た目のひどい状態なら、目をそらしてしまいがちです。ちょうど、イエスが使われた生々しい実例にあるように、膿でただれたできものを犬になめられているというラザロのような人なら。神の姿に似せて創造され、神に愛されている人間として見るよりも、そういった人を避けたり、目をそらしたり、無関心でいたりする方が簡単です。しかしクリスチャンである私たちは、助けを必要とする人たちの状況を見た時に、愛と思いやりの反応をすべきです。
イエスはこのたとえ話で、裕福な男を悪い例として用いることによって、富や財産がその人の態度に悪影響を与える危険性を強調しています。大切なのは、財産をどれだけ重視するか、またそれをどのように使うかということです。私たちはお金や財産に仕えているのでしょうか。それともそれを神の栄光のために使うでしょうか。
このたとえ話に出て来る金持ちのように、身勝手な生き方をするのでしょうか。それとも他の人たちを助けるでしょうか。たとえ金銭的に多くを与えられるほどのお金がなくても、困っている人を助けるために、できる限りのことをするでしょうか。たとえば、少し時間を割いてあげたり、関心を示したり、あるいは何らかの方法でその人の必要を満たしてあげようとするでしょうか。貧しい人や困っている人に対して、どのような態度を取っているでしょうか。無関心でしょうか。そういう人たちを見下しているでしょうか。そんな境遇にいて当然だという態度で裁いているでしょうか。それとも、行動によって思いやりや気遣い、関心を示しているでしょうか。
このたとえ話は、神の言葉を無視したり、拒んだりすることに対する警告も発しています。金持ちは何も信じていないか、間違ったことを信じていたかで、兄弟たちも同じ状態であることを知っていました。彼は兄弟たちにしるしを与えてくださいと頼みましたが、アブラハムは、彼らにはすでに神の言葉があるので、しるしは与えられないと言いました。神はその金持ちに責任を問われたのです。なぜなら、彼は神の言葉に触れることができたのに、それに沿った生き方をしなかったからです。そのことは、彼が貧しい人に対し、聖句に従った扱い方をしなかったことでわかります。
私たちがどう人生を生きるかは、永遠の将来に影響します。私たちの行動や、行動しないことは、今の人生のみならず、永遠の人生に影響を及ぼすのです。私たちは自分の選択や、どう生きるか、お金や物をどう使うか、困っている人にどう接するかに気を配るべきです。私たちの決断、選択、行動が積み重なったものが今の私たちであるばかりか、それらは将来、この人生の後に来る来世にも影響するのです。
クリスチャンである私たちの周りには、来世を信じていないか、それがあることに気づいていない人たちが大勢います。彼らは神の言葉を信じ、御子イエスを通して救いを受け取ることが、今の人生と永遠の人生を変えることを理解できないかもしれません。私たちの仕事とは、霊的な真理という富を彼らと分かち合うことです。私たちはこのたとえ話に出て来る金持ちのように、自分たちの霊的な富に満足して、物質的にであれ霊的にであれ困窮しているこの世の「ラザロ」たちの横を通り過ぎる金持ちのようになるべきではありません。
私たちはクリスチャンとして、人が持ちうる最も貴重なものを持っています。それは、永遠の命と、それを可能としてくださるイエスとの個人的な関係です。私たちの周りには、ありとあらゆる背景を持ち、助けを切実に必要としている人が大勢います。そして、私たちには、彼らと分け合うための、信仰、救い、神の深い愛という霊的な富があります。私たちは、彼らに慰めと救いをもらたすために、私たちの最善を尽くすよう召されているのです。
初版は2014年7月 2024年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク
1 ルカ16章のたとえ話は、新共同訳聖書から引用されています。