主の祈り(パート2)
The Lord’s Prayer—Part 2
May 1, 2023
ピーター・アムステルダム
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イエスは弟子たちに、次のような「主の祈り」を教えられました。「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試み[誘惑]に会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ 6:9-13)。
祈る際にイエスが父に話しかけるために使われた言葉は、父を意味するアラム語の「アバ(アッバ)」です。神の唯一無二の子であるイエスがご自身の父をアバと呼ぶのはもっともですが、注目に値するのは、イエスを信じる者たちも神をアバと呼ぶようにと教えられたことです。
山上の説教にある教えの中で、イエスは「あなたがたの父」という言葉を11回使うほどに、その言葉を重視しておられます。 山上の説教の後も、イエスは神のことをご自身の父としてしばしば話しておられ、それはあたかも、二人の特別な関係から他の者たちを除外しておられるかのようです。イエスが持っておられた父との関係は、私たちの持っているものとは違います。
これは、マタイの福音書の最初の方でイエスがバプテスマ(洗礼)を受けられた際に、神が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ 3:17)とおっしゃったことにあらわれています。それがもっともはっきりしているのは、マタイの福音書でイエスが祈られたと最初に記録されている祈りの言葉です。「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」(マタイ 11:27)。
イエスは神の唯一無二の子でしたが、私たちも、イエスを信じることによって神の子となれます。初代教会は、イエスの死とよみがえりを通して、信者たちは神の家族の一員となっており、それゆえに神を自分たちの父、「アバ」と呼ぶことができると理解していました。
「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」(ガラテヤ 4:4-6)。
「私たちの父よ」と祈る言葉には、私たちを愛し気づかっておられる方に話しかけているという親近感がうかがえます。祈りとは、何をされるかわからない存在に対して堅苦しくて分かりにくい話しかけ方をするというものではなく、心からのコミュニケーションなのです。イエスが教えられた祈りは短いもので、気取ったところがありません。日々必要とするものについて父を頼りにしていることを自覚しており、罪をゆるされる必要があり、父の保護と配慮を必要としている人が祈る、飾らない心からのコミュニケーションです。
イエスは、この祈りを「天にいますわれらの父」という言葉で始めることによって、私たちが父と呼ぶ方がこの上なく偉大であることも気づかせておられます。父は天にいますけれど、私たちはそうでないのですから。神に親しい呼び方をすると同時に、その力や計り知れない偉大さを認識しているという、バランスのとれた表現です。神は全能者であり、すべて存在するものの創造者です。そしてまた、私たちの愛情深い「アバ」でもあります。私たちはその子であって、神に信頼を寄せ、より頼んでいるのです。
イエスを信じて受け入れた人は、神を自分の父と呼ぶことができます。「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力[権利、資格]を与えたのである」(ヨハネ 1:12)。いうまでもなく、神は万物と全人類の創造者であり、すべての人に命を与えられました。そのような意味では、すべての人が「神の子孫」(使徒行伝 17:28-29)と言えますが、新約聖書の著者たちが神とその子どもたちに関して父子の比喩を用いたのは、そういうことではありません。父としての神との関係は、イエスを信じる人たちのためなのです。神を「私たちの父」と呼べるのは、神からの贈り物であり、大いなる特権です。
主の祈りの導入部として、祈りの対象を「天にいます父」とした後、6つの願いを述べられます。最初の3つは神に関わることです。御名、御国、御心です。それに続いて、私たちに関係ある3つの願いを述べられます。私たちの物的必要と罪、そして誘惑についてです。
祈りの模範という点で言えば、主の祈りのこの始まり方から、私たちが祈る際にはまず天にいます父に意識を向けるべきことがわかります。私たちが関係を持っている相手は、人格を持った存在です。私たちはこの方の御前に行って、賛美し、あがめます。私たちと神との関係は、子どもとその愛情深い父親との関係であると理解して、神のもとに行くのです。神は私たちを愛し、私たちに必要なものをご存じであるし、私たちを世話してできる限りのことをしてあげたいと望んでおられます。天にいます私たちの父との関係ゆえに、私たちは父を信頼して頼りにするし、父が私たちの最善を考えてくださっているとわかります。それを踏まえた上で、クリスチャンの祈りがあるのです。
主の祈りの導入部として、祈りの対象を「天にいます父」とした後、イエスはまず神の栄え、御国、御心に関する3つの願いを述べ、それに続いて私たちに必要なものについて3つの願いを述べられます。神に関する最初の3つの願いは、次の通りです。「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」 というわけで、3つの願いとは、御名があがめられるように、御国が来るように、御心がなされるように、ということです。これは、神の御名と支配と御心に関連して、神の栄光を求める祈りを言葉にしたものです。
「あがめる」と訳された言葉は、たたえる、聖なるものとする、聖別する、分離する、この上ない敬意をもって扱う、という意味です。「御名があがめられますように」と祈るとき、私たちは神をあがめ、また、神が受けるにふさわしい敬意を私たちが捧げるのを助けてくださいとお願いしていることになります。それはまた、神を敬わない人たちも心を改めて、神の御名に栄光を捧げるようになるため、神が私たちの世界に働きかけてくださるようにと願うことでもあります。
主の祈りを祈るとき、私たちは、主の御名がいたるところで完全にあがめられるようにと祈っているのです。神の御名を聖なるものとしてくださいと祈るとき、全人類が神を神として尊ぶように、また、この物質世界で、具体的に言えば神に従うある私たちを通して、神が何かを行ってくださるよう、神に求めているのです。
福音書を読むと、イエスが常に父に栄光を与えることに関心を持っておられたことが分かります。イエスの行動は、他の人たちが神に栄光を与える(神をあがめる、賛美する)ようにさせました。ヨハネ17章では、このように祈っておられます。「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。… わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました」(ヨハネ 17:4,6)。私たちもまた、神の御名を周りの人に表すことができます。私たちの言葉や人生を通して、神とその輝かしい特質の素晴らしさや栄光を映し出すものとなることによって、神に栄光が与えられるようにすることができるのです。また、神が「アバ」つまり愛情深い父であるばかりか、大いなる全能の神でもあるので、敬意と崇敬の念をもって接するべきなのだと気づかせられます。
二つ目の願いである「御国が来ますように」は、神の御国が私たちの世界にもたらされることを神に願っているという点で、最初の願いと似ています。神の統治、主権、権威が全地にもたらされるようにと神に祈っているのです。御国は、イエスがこの世に来られたとともに始まりました。御国は目に見えるものではないものの、イエスが地上におられたときも、それから今日に至るまで、イエスを通してここに存在してきたのです。また、イエスは未来形で語っておられます。神の力強い統治は、イエスの生涯と宣教によってもたらされた、現在すでに実在するものであり、また、イエスの再臨の後に完成するという、将来出現するものでもあります。
「御国が来ますように」と祈るとき、私たちは、福音が世界中に宣べ伝えられるように取り計らってくださいと神にお願いしています。それによって、人々がメッセージを受け取り、イエスへの信仰によって御国に入れるようになるためです。また、主を信じるに至る人が、ますます自分の人生において主に統治していただくようにとも祈ります。それと同時に、イエスが戻ってきて、神の御国を完成させてくださるようにとも祈っているのです。私たちは、すべての罪や、神に反対するいかなるものも取り除かれるときのことを待ち望んでいます。黙示録の締めくくりの言葉にあるように、「主イエスよ、来てください」(黙示録 22:20)と祈っているのです。
三つ目の願いである「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」は、二つ目の願いを踏まえたものです。神が統治されるとき、御心は行われます。ここでは、神の御国の意味するものが余すことなく実現するようにと祈っています。
天では、神の王権と御心がすでに認識され、実現しています。しかし、地上においては、いまだ完全に認識されてはいません。ある程度、信者の心と人生において御国は存在していますが、「天に行われるとおり」と言えるほどではありません。神の御心は、すでに天において行われています。そこでは、神の御名はすでに聖なるものであり、神はすでに王であり、神の御心が行われるのを止めるものはいっさい天にありません。
主の祈りを祈るとき、私たちは、父なる神が私たちの世界に働きかけ、人類の心を変えてくださるようお願いしているのであり、その一環として、他の人の心に変化をもたらすことに私たちも携われるよう助けてくださいとお願いしているのです。現在、私たちの世界は、天に行われるように神の御心を行なってはいませんが、いつか将来、神の御心が天に行われるように、地にも行われるようになります。
天にいますわれらの父に、御名が聖なるものとされるように、御国が来るように、そして御心が天に行われるとおり地にも行われるようにと嘆願するとき、私たちは物事を正しい優先順序で見ていることになります。つまり、神を第一に置いているのです。神の御名が聖なるものとされるよう祈ることによって、私たちは神を尊び、愛し、礼拝し、賛美することに全力を傾けることになります。神だけが聖なる方だからです。
神の御国が来るようにと祈るとき、私たちは、神の統治がこの世界にもたらされるよう求めるとともに、私たちの人生においても統治を行ってくださるよう求めています。御心が天に行われるとおり地にも行われるよう祈ることは、神の御国と主権と統治が私たち自身のものよりも優先され、神の御心が私たち自身の思いよりも優先されるようにという私たちの願いを言葉にしたものです。
初版は2016年7月 2023年5月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー