田舎者の神
The God from Podunk
May 10, 2023
スコット・マクレガー
私は、イエスが子供時代やおそらくは十代の頃に住んでいたと思われる場所について、これまで誤ったイメージを抱いていたことに気づきました。ガリラヤがイスラエル北部にあり、エルサレムからかなり離れていることは知っていたのですが、最近になって、そこはものすごい「片田舎」であり、それがイエスや弟子たちと当時のユダヤ人にどんな影響を与えていたかがわかったのです。
ガリラヤは、大部分が、その名を冠した湖を囲む起伏に富んだ丘陵地帯です。またそこは僻地で、住民のほとんどが貧しく、そこから成功した人などさしていないような場所でした。何百年間もユダヤ文化や生活の主流から外れていたのです。ソロモンの死後に国が二つに分かれるまでは、イスラエル統一王国の一部でした。分裂後、南の王国はユダ王国と呼ばれ、ソロモンの子孫が統治しました。
北の王国はそのままイスラエル王国と呼ばれ、ヤラベアムが王になりました。ヤラベアムは南の王国が崇拝する神殿を中心とした一神教に対抗する宗教を設立しました。彼は2頭の金の子牛を作って、1つはベテルに、もう1つはダンに置いて、それらがイスラエルの神だと宣言しました。モーセと出エジプトの話を知っている人なら、それを聞いて、その頃のイスラエル史において金の子牛が作られたことを思い出し、また同じことを繰り返しているとあきれているかもしれません。(参照:出エジプト32章)
この後イスラエルはアッシリア軍に侵略され、紀元前721年に王国は滅亡しました。支配階級や都市にいた住民たちは他国に捕らえ移されましたが、ガリラヤの大部分は高地にあったため、そこに住んでいたほとんどの貧しい人たちはそのまま取り残され、必要最低限の生活を続けたようです。
一方、紀元前586年に、バビロニア軍は南のユダ王国を侵略しました。3度の軍事行動により彼らはエルサレムの街と神殿を滅ぼし、上流階級の者をバビロンやその他の場所に捕らえ移したので、一帯は貧しい者たちだけが住む荒廃した地域となったのです。ペルシア軍がバビロニアを征服して初めて、ユダヤ人はエルサレムに戻って、都市と、最も重要である神殿を再建することが許されました。
バビロンから帰還したユダヤ人は、ユダヤ教の聖書を編纂しました。彼らにとって一番大切だったのは、「トーラー」です。これは律法の書であり、モーセが著者であるとされる聖書の最初の五書です。その後、彼らはこの5つの書に基づいて政府や宗教を築きました。
一方、ペルシアはアレクサンドロス(アレキサンダー)大王に征服され、ユダ王国のあった地域は、彼と彼の後継者の帝国の一部になりました。事実、ペルシアは、アレクサンドロスの2人の後継者によって激戦が繰り広げられた場所です。イスラエル北部を拠点とするセレウコス朝と、エジプトを拠点とするプトレマイオス朝との戦いでした。ギリシア語がアラム語のように中東の共通語となったのは、その頃です。イスラエルでは、基本的に神殿や会堂でヘブライ語が使われる程度になりました。
セレコウス朝の激しい挑発的行為の後、ユダヤ人は反乱を起こし、マカベア家、後にハスモン家と呼ばれるユダヤ人一族のもとで独立を勝ち取りました。マカベア家はユダヤで権力の座に就くと、支配範囲を広げて王国を設立し始めました。彼らがガリラヤ地方を征服したのは紀元前100年ごろのことでした。そこにはすでにイスラエル人が先住していましたが、その頃にはより多くのユダヤ人が移住してきたようです。しかし、大きな変化がありました。ハスモン家がその土地に、自分たちの律法、すなわち旧約聖書の最初の五書にある律法を課してきたのです。そのため、住民の宗教もまた、ユダヤ教になりました。
それまでガリラヤの人々が何の宗教を信じていたのかは明らかではありません。覚えていますか。彼らの先祖はユダヤ教神殿で神を礼拝するのをやめて、金の子牛を拝んでいました。その後、少なくとも一部の人たちはフェニキア人の神々を拝んでいました。神を礼拝するための、昔からのユダヤ教式の方法がどの程度残っていたのかはわかりません。けれども、イエスが誕生した頃には、当時、ローマに従属するヘロデ王を通して、もう一つの支配者であるローマ人の支配を受けていたにも関わらず、ガリラヤではユダヤ教が信仰されていました。イエスの地上の父親であるヨセフの家族は、ユダヤ、詳しくはベツレヘムの出身でしたが、彼がガリラヤに来た最初の世代だったのか、元々彼の家族がガリラヤにいたのかは知られていません。
以上のことから言えるのは、エルサレム周辺に住むユダヤ地方のユダヤ人は、ガリラヤ人のことをあまりよく思っていなかったということです。彼らは田舎者と考えられていました。強いなまりがあったようで、それは、イエスの裁判があった夜に、人々がペテロに言ったことにも表れています。「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」(マタイ 26:73)。
祭司長やパリサイ人は、明らかに、ガリラヤから預言者、ましてやメシアが出てくるなんて、馬鹿げた話だと思いました。その可能性はあると考えた、同じ祭司であるニコデモを嘲笑さえしたのです。「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」(ヨハネ 7:52)。
また、イエスの故郷の村であるナザレは特に評判が良くなかったようです。ヨハネによると、後に使徒となったナタナエルは、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ 1:46)と言ったとあります。事実、ガリラヤは反乱の温床と考えられていたようです。使徒行伝にも、ガリラヤのユダヤ人が反乱を起こそうとしたが、彼は殺され、仲間は逃げたと記されています(参照:使徒行伝 5:37)。ローマ人も、イエスが誕生した頃に起きた反乱を容赦なく鎮圧し、ナザレのすぐ近くにあった、ガリラヤの主要都市セポリス(セフォリス)を滅ぼしました。
イエスの宣教活動のほとんどがガリラヤで行われ、時折ユダに行っただけでした。イエスはまさに「田舎者の神」だったのです。多くのユダヤ人から、あれほどひどくあしらわれたのもうなずけます。その当時、自分がそこにいたとしたら、主とその教えをすぐに受け入れることができただろうかと時々思います。あなたが、国内の最も貧しい地域から出て来た、地方のなまりで話す、どこの馬の骨ともわからない誰かについて行くことを想像してみてください。
しかし、弟子たちはイエスに従いました。ガリラヤの人々だけでなく、地中海世界一帯のユダヤ人も従ったのです。イエスがエルサレムで屈辱的な方法で処刑されたわずか50日後、何千人ものユダヤ人が重要な宗教行事を祝うためにエルサレムに集まっていました。そして、彼らはこのガリラヤ人はただの預言者ではなく、長年待ち望んでいたメシアだと確信し、新生のキリスト教を熱心に受け入れました。歴史研究家は、当時エルサレムの人口が6万人ほどだと推定しています。ですから、この時に改宗した人と、その数週間後にそれと同じように改宗した人たちは、そこの人口のおよそ13%にあたるということです。一体、何が彼らをそうさせたのでしょう。
それは、神が非常に特別な方法で人々を動かされたということです。キリスト教は素早く広まっていきました。間もなく、ユダヤ人ばかりか、ローマ帝国の支配下にあった多くの国や、その先の国の人々までも、この田舎者の神を信じるに至ったのです。
多くの地域でクリスチャンになることが受け入れられ、さらには好ましいと考えられるまでには、300年以上かかりました。しかしながら、ローマ帝国で最も問題が多い地域の、最もへんぴな地域の一つから来て、約3年間宣教し、謀反人として30代で処刑された男が、神と人々への愛の宗教を始め、それが今でも続いているのです。そして、この神であり人でもある方、イエスは、今も私たちと共にいて、これからもずっとそばにいて下さるのです。このすべてを考えると、これはまさに驚嘆すべきことではないでしょうか。
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更