イエスの憐れみ
The Compassion of Jesus
October 21, 2025
引用文集
オーディオ・ダウンロード(英語) (13.9MB)
聖書を読み進めるにつれ、私たちはそのページを貫く深い憐れみの物語に出会います。旧約聖書に描かれた神の愛の物語から、新約聖書に記されたイエスの限りない慈しみに至るまで、これらの物語は単なる歴史的記録ではなく、私たちへの行動への呼びかけでもあります。これらの物語を探究する中で、私は神の愛の深さに心を動かさずにはいられませんでした。…
聖書を深く読み進めていくと、イエスの計り知れない憐れみを示す数えきれない物語に出会います。イエスは愛を説くだけでなく、その愛に生き、行く先々で人々の人生に触れられたのです。… イエスの憐れみを最も深く感じさせる物語のひとつが、重い皮膚病(ツァラアト)を癒やされた出来事です。その光景を思い浮かべてみてください。ツァラアトのために社会から追放された十人の男たちが遠く離れた場所に立ち、必死の思いで声を張り上げています。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」(ルカ17:13)。
ツァラアトにかかるということは、単に病気になったということではなく、隔離の人生を余儀なくされる宣告を受けたということでした。それでもイエスは、彼らの病を超えたところを見られました。彼らの心、癒やしへの切なる願いを見て、憐れみをもって応えてくださいました。そして、こう言われました。「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」(ルカ17:14)。すると、行く途中で彼らは清められたのです。…
イエスの憐れみ表すもう一つの鮮明な描写は、5000人に食事を与えた時の出来事です。思い浮かべてみてください、空腹で疲れ切った大群衆を。周囲には食べ物を得られる場所もありません。しかし、彼らが求めていたのはパンだけではありませんでした。イエスが語られる「いのちの言葉」に飢えていたのです。
人々の必要を見たイエスは、彼らを突き放しはしませんでした。むしろ、五つのパンと二匹の魚を取り、感謝の祈りをささげた後、それらを奇跡的に増し加えて、集まっていたすべての人々に食物を与えたのです。この出来事は四つの福音書すべてに記されていますが、そこには供給の奇跡だけでなく、イエスの深い憐れみが描かれています。イエスは彼らの霊的な渇きと肉体的な必要の両方を気遣われたのです。…
こうした物語の一つひとつは、イエスの心のうちを垣間見せてくれます。イエスの憐れみは、社会的な地位や罪、病によって制限されるものではありませんでした。イエスはどの人も、ご自身の愛と奇跡の触れ合いに値する存在として見ておられたのです。これらの記述を振り返るとき、イエスは昨日も今日も永遠に変わらぬ方であることを思い起こします。イエスの憐れみは昔と同じように、今の私たちにも注がれています。祈りと信仰、そしてその愛を受け入れる開かれた心を通して、私たちもまた、イエスの憐れみがもたらす変革の力を経験できるのです。
これらの聖書の物語を振り返ると、憐れみこそがイエスの教えと行動の核心であることが明らかです。イエスは愛と親切について説くだけではなく、身分や状況に関わらず、助けを必要とする人々に手を差し伸べることで、日々その愛に生きてこられたのです。
イエスの手本を通して、私たちは憐れみの真髄を学びます。憐れみとは、ただ誰かを気の毒に思うことではなく、その苦しみを和らげようと積極的に行動することです。これらの物語は、単なる古代の記録ではありません。私たち自身が日々の生活の中で憐れみを体現するようにと促す行動への呼びかけなのです。イエスの模範に鼓舞され、障壁を打ち破り、すべての人に愛を差し伸べることで、憐れみが確かに果てしないものであることを示していきましょう。—デューク・テイバー [1]
行動に現れる憐れみ
旧約聖書では、十数箇所で神が憐れみ深い方であると述べられており、福音書では、六箇所でイエスが憐れみを感じられたことが記されています。ルカ13:10–17にある、腰の曲がった女性を癒された物語は、まさにイエスの行動に現れた憐れみを示しています。同時に、その憐れみの背後にある、他の人に共感するイエスの心を垣間見せています。
その女性は「かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない」人として描かれています(ルカ13:11)。安息日に、彼女はイエスが教えておられる会堂に入ってきました。イエスは彼女を見ると、近くに呼び寄せ、彼女を癒やされたのです。…
私はこの女性に強く共感を覚えます。私は骨粗しょう症ではありませんが、年齢を重ねるにつれ、肩が下がりがちなことに気づくのです。… それに加えて、しばしば責任に押しつぶされるように感じ、家族や友人の身に起きている出来事に心を痛め、腰が曲がって前屈みになっているような思いになります。また、世の中で起きている数々の問題の重みにうなだれてしまうこともあります。…
イエスはこの女性を癒やされたとき、こう言われました。「女よ、あなたの病気はなおった」(ルカ13:12)。私も、押しつぶされそうな不安や重圧から解き放たれたいと、どれほど願っていることでしょう。そして、イエスに従ってきた長い年月の中で、神が幾度となく喜びと自由を与えてくださったことに、どれほど感謝していることでしょう。
イエスは、会堂に入ってきた女性を呼び寄せ、癒やされたとき、深い憐れみを示されました。イエスは彼女が腰を曲げているのを見て、その境遇に心を動かされ、状況を良くしようと行動されたのです。内面的に心を動かされ、それに応じて行動に移すという、この二つが結びついたものこそ、憐れみの本質なのです。
この出来事が安息日に起こったため、会堂の長はイエスの行動を快く思いませんでした。イエスの誕生前の数世紀に、ユダヤ教の指導者たちは安息日に関する規定をまとめ上げ、安息日に禁止される行為を表すために、「癒やす」を含む39の動詞を用いました。…
会堂の管理者から非難されたのち、イエスは、ユダヤ人たちが安息日であっても、家畜を小屋から解いて水を飲ませに行くことは適切だ、と考えていることに言及されました(ルカ13:15)。そして続けてこう言われます。「それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」(ルカ13:16)。この「十八年間も」という表現は、イエスの憐れみの根底にあった共感的な理解を示す重要な言葉なのです。…
この腰の曲がった女性の癒やしの話で、イエスは憐れみの根底にある共感的な理解とはどのようなものかを示しておられます。イエスは彼女の苦しみに心を動かされ、その痛みを和らげるために自ら進んで行動されました。私たちも、神の御霊に導かれ、力づけられ、イエスの模範にならって、共感と憐れみを深めていくことができますように。—リン・M・バーブ [2]
憐れみとは何か
聖書には、さまざまな登場人物が憐れみをもって行動した素晴らしい例が記されています。多くの聖書物語は、親切、恵み、憐れみで満ちています。… たとえば、メシアのために自分の墓を用意したアリマタヤのヨセフや、自分の髪の毛でイエスの足を洗った女性の話があります。彼らを通して、私たちは、憐れみや親切を示すことは、単に優しくすることにとどまらず、救い主への礼拝の行為にもなり得るのだと学ぶのです。
ガラテヤ5:22–23には、こう書かれています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません」(新改訳2017)。聖霊の実とは、神が私たちの人生に表れてほしいと願っておられるものであり、その中には、憐れみから生まれる親切も含まれています。
他の人々が苦しみから距離を置こうとする中で、憐れみ深い人は行動に移ります。憐れみを示す方法、憐れみ深くあるにはさまざまな方法があり、旧約・新約のどちらにも、他の人に共感し、憐れみを示し、あるいは自ら憐れみを受けた聖書の人物たちの例が数多く登場します。
憐れみの真の定義とは、苦しんでいる人への愛を具体的なかたちで表すことです。憐れみとは、他の人の苦しみに気づくだけではありません。苦しみを軽減してあげたいという願いを超えたものです。憐れみ深い人は、他の人の苦しみを認識したうえで、その人を助けるために実際に行動するのです。…
メシアであるイエス・キリストは、地上での宣教活動の間、憐れみの模範を示されました。聖書の中でも最も胸を打つ憐れみの例の一つは、イエスがラザロの墓で憐れみを示された場面です。イエスは、ラザロの友人たちが涙を流しているのをご覧になると、ご自身も共に涙を流されました(ヨハネ11:33–35)。主イエス・キリストは、何度も人々に憐れみを覚え、彼らを癒し、慰められました。また、大勢の群衆をご覧になり、羊飼いのいない羊のようだと感じ、彼らに目的と保護を与えるために来られたのです。
神の御子であるイエスは、私たちには到底想像できないほどのものをお持ちでした。それにもかかわらず、イエスは自ら進んで、私たちに永遠の命を与えるために、すべてを捨て、無私の心で自らを犠牲にされました。この犠牲の中に、私たちは、聖書に記されている憐れみの最も偉大な模範を見るのです。…
第1ヨハネ3:17には、こう書かれています。「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」 これは、愛とは言葉や口先だけのものではないことを意味しています。愛は行動と真実において示されます。彼は、愛とは感じたり考えたり語ったりするだけでなく、行動するものであると述べているのです。
多くの人が苦しむ人々から距離を置く中で、信心に基づく憐れみは、痛んでいる人々のために行動するようにと私たちを駆り立てます。貧しく、生活に必要なものがない人、父親を失った人たちを目にするとき、私たちは憐れみ深い行動を通して慈みを示すようにと召されているのです。
神が私たちに示してくださった憐れみを思うとき、私たちもまた、周囲の人々に憐れみをもって応えることができるのです。—Compassion.com [3]
イエスの愛で他の人々を愛する
私たちがイエスの効果的な使者であり使節となるためには、キリストの愛を携えて歩み出さなければなりません(ローマ5:8)。イエスがそうされたように、自らを捧げることを厭わない姿勢が必要です。それは、状況によって異なる意味を持ちますが、結局のところ、助けを必要としている人々に主の愛を示すために必要とされる犠牲を払うということなのです。
私たちに与えられた大宣教命令のことを考えると、圧倒されるかもしれません。救い主の愛と憐れみを人々に十分に表せるとは、とても思えないかもしれません。自分の心には愛が足りないように感じたり、理解が浅い、憐れみが十分ではないと感じるかもしれません。
もしそのように感じているなら、どうか覚えていてください。神は私たちにご自身の愛と御霊を与え、その御霊が私たちを動かして、イエスの真理を他の人々と分かち合うように導いてくださるのです。そして、私たちが他の人々に対して神の愛と憐れみを示すことができるのは、神ご自身が私たちのうちに働き、また私たちを通して働いてくださるからです(ピリピ2:13)。イエスが私たちに注いでくださった愛こそ、イエスを地上に来させ、私たちと共に生き、そして私たちのために死ぬことさえ選ばせた動機でした。それは、私たちが救われ、永遠にイエスと共に生きるためだったのです。
愛こそが、過去の偉大な宣教師たちを故郷や共同体、祖国を離れるように駆り立てた原動力でした。それは彼らの心に響く主の呼び声に応え、他の人々に主について伝えるためでした。イエスへの愛が彼らを駆り立てたのです。そして、その同じ愛が、私たちが他の人々に主の愛を伝え、主の憐れみを生きたかたちで示していくときにも、私たちを動かしてくれるのです(2コリント5:14–15)。—マリア・フォンテーン
2025年10月アンカーに掲載 朗読:デブラ・リー 音楽:ジョン・リッスン
1 Duke Tabor, “7 Inspiring Bible Stories About Compassion That Transform Hearts Today,” Answered Faith, March 8, 2024, https://answeredfaith.com/bible-stories-compassion
2 Lynne M. Baab, “The Compassion and Empathy of Jesus,” lynnebaab.com, https://www.lynnebaab.com/articles/new---the-compassion-and-empathy-of-jesu
3 “Compassion in the Bible,” compassion.com, https://www.compassion.com/poverty/compassionate-bible-characters.htm