新年のための力
Strength for a New Year
January 3, 2020
J・R・ミラー
すべての年を、意義ある年とすべきです。新年が来るたびに、もう一段階上へと進み、もう少し高い場所に足を持ち上げなければなりません。前の年と同じレベルで生きてはならないのです。
仕事や責務によって弱り果て、うみ疲れているクリスチャンが大勢います。お決まりの仕事に、すっかりうんざりしているのです。作業量は膨大で骨が折れ、生活は退屈で単調で、仕事はしばしば無益に思われます。何かを蒔いても、成果を刈り取ることはありません。ことあるごとに失望や落胆を味わいます。今日の明るい希望は、明日にはしおれた花のように横たわっています。
しかし、強くあることはできます。神が私たちのために、強さをお持ちなのです。神の御力は、どのように私たちに与えられるのでしょう? 数多くの方法によってです。ヤコブは、あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は光の父から下ってくると述べています。それならば、どのような方法で与えられるにせよ、それは実際、神からくるということです。書物の中にそれが見つかることもあり、読んでいる内にそこに書かれた言葉が心を温めて、闘いや奉仕に臨むための、新たな意欲を与えてくれます。あるいは、励まし、共に居て、助けてくれることによって、私たちを新たな勇気で満たしてくれる友人たちの中に、それが見つかることもあります。神は私たちが思っているよりもずっと頻繁に、人々の愛を通して私たちを強め、祝福して下さいます。その愛情によって私たちの心に触れる人々の人生に、身を隠しておられるのです。そして人々の目を通して私たちの目をのぞき込み、人々の唇を通して、私たちの耳に語られます。神は、愛と励ましを携えて私たちのもとに来てくれる友人たちを通して、弱っている時に力を、落胆している時に希望を与えて下さいます。
聖書は昔の天使たちの奉仕について多くを語っています。彼らはうみ疲れ、苦闘している人々のもとに赴いて、励ましをもたらしました。主が誘惑に遭われた後にやって来て、弱っておられた主に仕えました。また、ゲツセマネで苦悩しておられたイエスのもとにも現れて、主を力づけました。今でも疑いなく天使はやって来て、私たちに仕え、力づけてくれますが、ただ通常は、人々の愛という形で訪れるのです。
しかし、神の御力は別の方法によっても与えられます。聖書の中の、神の御言葉を通してです。悲しい気持ちの時に聖書を開くと、そこには神が愛しておられるという保証や、神の助けや慰めの約束が書かれています。神は私たちの御父であられ、悲しみはあふれんばかりの祝福となり、神の子どもにとっては、万事が共に働いて益となるという約束です。それらを読み、読んだ言葉を信じ、それらすべてを、自分のための言葉として受け入れるなら、魂に新たな力や不思議な穏やかさや、聖なる平安が訪れて、即座に慰めを受けます。
時には落胆し、感情が高ぶり、思い煩い、人生の無数の気がかりな物事に悩まされ、多くの重荷を負うのにうんざりし、力尽きてしまう日もあります。そんな時に聖書を手に腰を下ろすと、神は励ましの言葉によって、私たちに語りかけて下さいます。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。」
「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。」
「あなたの荷を主にゆだねよ。」
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。」
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。」
そして、私たちがその御言葉を深く思う時、疲労感は消え去ります。自分が強くなっていると感じるのです。希望がよみがえり、勇気を取り戻します。神ご自身のお言葉として聖書を読み、その約束と保証と、いましめと助言の中に神の御声を聞く人は、それによって絶えず強められるのです。
しかし、それよりもさらに良いことさえあります。神ご自身が…そのあらゆる愛と恵みを携えて、私たちの人生に入って下さるのです。預言者はこう告げています。「神は弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。」 これは地上で弱りうみ疲れている神の人々に直接注がれる、神の御力があるということに他なりません。それは素晴らしい啓示です。これにより、私たちの弱いところに、キリストの御力そのものが与えられることがわかります。その豊かに満ちあふれる御力が、力尽きて空っぽの私たちへと注がれるのです。
人は私たちが問題に陥った時に味方となって、その同情や愛や、励ましや声援によって、少しは元気づけてくれるかもしれませんが、自分の力や喜びを、私たちの心に注ぎ入れることはできません。しかしキリストは、その御力を私たちに注ぎ、ご自分の生命そのものを与えて下さるのです。私たちにとってキリストは、ぶどうの枝にとってのぶどうの木のようなものです。どのような形であれ、枝が傷つき、変色し、折れ、生気を失うと、ぶどうの木は自らの生気を傷ついた部分に送って、失われた分を補給し、いやします。それこそキリストがなされることであり、弱った者に力を与えられるのです。主の御力は、私たちの弱いところに完全に表れます。必要が大きければ大きいほど、私たちに与えられるキリストの恵みも増し加わります。ですから、試練を経験するまでは決してあずかることのない、数々の祝福があるのです。悲しみを味わうまでは、決して神の慰めを知ることはないでしょう。そして悲しみとはどういうものかを知る時、私たちは神が、悲しみの時に強さや慰めを与えて下さることをも知るようになるのです。
このような約束された強さを受け取るには、どうすればいいでしょうか? 答はこうです。「主を待ち望む者は新たな力を得る。」 主を待ち望むとは、どういうことでしょう? それは、忍耐強く神に信頼し、神の愛を信じ、神の導きを受け入れ、神の御心のそば近くに留まり、絶えず神と交わりつつ生活し、神の御腕に寄り頼み、神から助けをいただくことです。祈りは神を待ち望むことの一環です。祈りの内に神に近づく時、即座に新たな恵みが与えられるのです。
神を待ち望み、キリストとつながり、主と絶えず交わりを持つなら、必要の大きさに応じて、主から絶え間ない強さが、私たちに注ぎ込まれます。…すべての港や運河や、沿岸のすべてのくぼみに海の水が流れ込むように、神の強さもまた、すべての心を満たしてくれるのです。
また、「新たな」という言葉に注目して下さい。「主を待ち望む者は新たな力を得る。」 力は、それが尽き果てるや否や、再び満たされます。素早く与えれば与えるほど、神は新たにもっと与えて下さるのです。それはまるで、やもめのかめの中の小麦粉や、壺に入った油のようです。それらは空になることがなく、むしろそこから取り出すたびに、何度も繰り返し満杯になるのです。私たちは仕事を続け、苦闘し続け、物事を成し遂げ、奉仕を続けなければなりません…。主を待ち望むなら、常に新たな力が与えられると確信しながら。私たちは、星を創造し、それらを名前で呼び、宇宙とその中にあるすべてのものを掌中に収め、弱ることもうみ疲れることもない方との、生きた交わりを持っています。神がその豊かに満ちあふれる生命や、強大な御力と共に、四六時中後ろで待機していて下さるのです。そして私たちが生気を失うたびに、それは即座に補充されます。神は弱った者に力を与えられるからです。
ですから、キリストが空になった力を満たして下さるのは、私たちがキリストの御名によって、他の人々に与える時なのです。主は、「与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう」と言われています。
神は未知の一年全体を、そのみ光で照らされます。この一年にどんな経験を通るとしても、決してそのための力に欠けることはないでしょう。神が責務を与えておきながら、その遂行に必要な力を与えて下さらないことなど、決してありません。重荷を与えられるなら、それを負うことができるよう、必ず私たちを支えて下さいます。それに見合った慰めを送ることなしに、悲しみを送られることも、決してありません。それを成し遂げられるよう供給されることなしに、決してどんな奉仕に召されることもありません。私たちはただ、主を待ち望むなら、日々進み続けるうちに、必要なあらゆる強さが与えられると、固く信じていればいいだけです。
1913年の初版より改訂。出典: https://gracegems.org/Miller/strength_for_a_new_year.htm.