聖書を物語にして伝える(パート3)
Storying the Gospel—Part 3
May 10, 2018
By Maria Fontaineマリア・フォンテーン
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物語にして語ることは、時間というテストに耐えて、福音を生きたものにするための効果的な手段であることが証明されています。何世紀にも渡り、イエスをはじめ多くの人々によって使われた方法が、現在、世界中で多くの人々に手を差し伸べるための重要な方法となっているのを見ると、ワクワクします。
聖書を物語にして伝えることに関して言えば、必要なのは、あなた自身の聖書の知識と、表現豊かに、心から情熱を込めて物語を告げたいという意欲だけです。若い人にも年配の人にも、お金持ちにも貧しい人にも、また、読んで学ぶ人にも聞いて学ぶに人も、あらゆる種類の文化や宗教を持つ、あらゆる種類の学習者にもアピールします。色々な人が入り混じったグループでも、物語なら、一度に全員に伝えることができます。
聖書を物語にして伝えるための集まりで何が起こっているかというと、聖霊が一人一人の心に語りかけて、その人が神の言葉に心開くときに、彼らが最も必要とするものを与えているのです。聖霊は、それぞれの経験、世界観、知識といった様々な要素によって、一人一人に異なることを示します。聖書を物語にして伝えるというアプローチを字が読める人たちに用いる場合、口づてのみによる学習者に対してそれを用いる場合とは少々異なるかもしれないことを念頭に置いてください。けれども、原則は同じです。『Truth that Sticks』という本で、アヴェリー・ウィリスとマーク・スノーデンは、口づてによる学習者たちに聖書を物語にして伝えるという経験を使って、たとえばアメリカのような文字社会にも、それがとても効果的に取り入れられることを示しました。
彼らの本から、いくつか興味深いポイントを紹介します。
絶対的真理は存在しないと教える現代の文化や相対主義についてはどうすればいいのかと思っているかもしれません。答えは単純です。ただ物語を告げればいいのです。物語は単にこちらの言い分を証明するための説明ではありません。神の真理を伝える手段なのです。信じない人もいるでしょうが、御言葉には、納得させ、良心の呵責を覚えさせるという、両方の力があります。
私は、博士号を持っている人も入念に語られた聖書物語を聞くことを好み、次に的を射た質問をすれば、対話の中で望むだけその意味を掘り下げることができることを知りました。
私たちは聖書を物語にして伝えるという方法を使って、他の宗教を持つ人たちに驚異的な効果を上げています。物語は普通、現実のものであれ、想像上のものであれ、いかなる防御レーダーをもすり抜けます。なぜなら、相手の信条に対して直接反対したり意義を唱えたりしているわけではないからです。物語を聞く気があれば、それが少しずつ積み重なって、いずれ神の言葉の真理を否定できなくなるでしょう。[1]
以下は、この本(『Truth That Sticks』)を読んだ人たちからの感想です。
聖書を物語にして伝えることについてよく聞かれる反対意見とは、それは子供向けのものにすぎないというものです。しかし、著者が指摘しているように、どんな人でも面白い物語を聞くのが大好きです。そして、物語には(直接、聖書を説明するのに対して)幾つもの利点があります。人が物語を聞いて自分の中に吸収する時、物語はその人の世界観を変える力を持つのです。子どもたちを弟子として育てる上で、親は簡単に、聖書物語を使って信仰について教えることができます。子どもはそれらの物語を聞いて他の子どもたちに分け合うことだってできます。また、物語を使って、神学的な質問に答えたり、リーダーを訓練したりすることもできます。
著者らは自分たちの経験からこう証言しています。「物語にして伝えることは、『色々なところを歩き回って聖書について語る』弟子を生み出します。」 そういった人たちは、聖書をよく知っていて、他の人たちに分け合うことができます。...
また、物語にして伝えることで、一つ一つの聖句についての記憶が曖昧になってずっと経ってからも、人はその聖書の部分をいつも覚えていて、福音伝道で直接分け合うことができるように思えます。—カール
イエスは物語が持つ力をご存知でした。(たとえ話のことを考えてごらんなさい) それどころか、神は聖書の多くの部分が物語形式で記録されるよう霊感なさったのでした。きっと、どの聖句の真理についても、それを図解する聖書物語があるかもしれません。物語にして伝えることは、教師の道具箱の中にしまわれておくだけのものではなく、頻繁に、効果的に使うことができるものなのです。—ケビン
私がここから学んだ一番大切なこととは、聞いた人がさらに他の人に伝えることのできる形で、聖書を物語にして教えることが大事だということです。弟子育成の過程は全く再生されないことがよくあります。人々は何かを教わっても、自分が学んだことを他の人に教えたりしません。レン[2]
アメリカ最大級の教会であるローリングヒルズ教会では、聖書を物語にして伝えるという方法を、福音伝道と弟子獲得の主要な手段として用いており、インターネットに素晴らしい資料を載せています。彼らは、聖書を物語にして伝えることを次のように定義しています。
聖書を物語にして伝えることは
- 物語やたとえ話を使って神の国について教えられたイエスの手本に従うための方法。
- 神の言葉をより深く理解し、その価値を知ることを意図とする、活発なグループ参加体験。
- 聖霊がリーダーとなり、私たちがその言われていることを引き出すための進行役(ファシリテーター)としての役割を果たすための機会。
- 弟子獲得の過程における、効果的な手段。
- すべての人に対して開かれており、無信仰者も含め、霊的な旅路におけるどの段階にいる人でも参加できるようにする素晴らしい方法。
また、聖書を物語にして伝えることは
- リーダー中心で、勉強に的を絞られた、一つしか正解のないタイプの経験ではない。
- 話に参加したりオープンに分け合ったりするのが嫌な人には合わない。
- 神があなたをご自身の器として使えるよう、祈りと準備が必要だという点では、容易なことではない。[マリア:あなたが直接関係している出来事について、自分なりの表現で語っているかのように物語を告げることを目標とすべきです。物語を自分のものとし、それを自分で「感じる」ほどにしてみましょう。]
- 才能ある語り手や、聖書の知識が豊富な人でなくてもできる。
Truth That Sticksの著者らは、聖書を物語にして伝えることについて以下のような助言をしています。
物語の選択: どの物語をひとまとめにして決められた期間内に話すかについては、いくつか方法があります。
- 年代順:天地創造から始めます。
- トピック:グループが学んでいるトピックがあり、そのトピックに関連した物語をやります。
- 聖書の登場人物:聖書に登場する人物の生涯に起こる出来事についてもっと具体的に物語を告げるもので、年代順とは異なります。
- 状況:聖書の登場人物が面する同じような状況や苦境による分類という意味では、トピックごとの分類に似ています。
物語の進行役: 聖書を物語にして伝えることは、聖句から始まり、聖霊に教師になっていただきます。導き手の役割とは、聖書教師になることではなく、進行役になることです。
「探求と経験」か「説明」か: 導き手は参加者が聖書と物語に夢中になるよう助けます。[聖書の言葉の意味を説明したり、教えたりするのではありません。]
「進行役」か「教師」か: すべての話が物語に戻されることで、対話は行われ、質問の答えは見つかります。
「聞く」のか「話す」のか: 導き手として、私は答えを与えることに気をもむのではなく、聖霊と参加者に耳を傾けるという立場にいたいと思っています。肝心なのは私の実績と結果ではなく、聖霊が人々の人生の中で、また人生を通して働くことなのです。
「物語」か「説教」か: 物語は双方向の対話ですが、説教は一方的な会話です。
(マリア:) 聖書を物語にして伝えることは広めるだけの価値があると思います。人々が、対話に加わり、自分で物語を語り、グループが物語を消化するのを助け、真理を実行に移すという説明責任を互いに負い合うにつれ、彼らはますます物語を自分たちの人生に取り入れ、そこにある真理に従うようになります。聖書を、パントマイムやフランネルグラフ、寸劇(スキット)、チョーク画、または歌や韻を踏んだ詩や、詠唱といった形式の物語にして伝えることは、伝える相手が一人であっても集団であっても、非常に効果的なものとなりえます。聖書を物語にして伝えることは、それを語るのであれ演じるのであれ、すべて御言葉を表現することであって、御言葉はむなしく帰ることがありません。3
初版は2015年10月 2018年5月に改訂・再版
朗読:イレーヌ・クィティ・ヴェラ