種をまく人
The Sower and the Seed
April 1, 2019
ピーター・アムステルダム
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種をまく人のたとえ話で、[1] イエスは、種がまかれた4種類の土壌について語られました。鳥によって種が食べられてしまう道ばた、すぐ下に岩盤のある土の薄い地、いばら混じりの地、そして実をよく結ぶ良い地です。
解き明かしはこのように始まりました。
そこで、種まきの譬を聞きなさい。だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。[2]
マタイ書では、種は「御国の言葉」と呼ばれています。マルコ書では「御言葉」、ルカ書では「神の言葉」です。たとえの説明では、4種類の土壌それぞれにまかれた種を、神の言葉のメッセージを聞いた4種類の人の反応に結び付けています。
畑の間にある、固くなった道に落ちた種は、地面の上に残ったままなので、鳥にとっては食べに来やすいものでした。イエスの時代のユダヤ教文書では、鳥が悪魔を象徴していることがありました。固くなった土地のような人がいます。そのように固い土地では種が発芽することはありません。その人はメッセージを受け入れようとしないからです。礼儀正しく話を聞いてくれるかもしれませんが、心から耳を傾けているわけではないのです。そうなると、種は「悪い者」に奪い取られてしまいます。
イエスは次に二つ目の種類の実を結ばない土壌について解き明かしを与えられました。
石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。[3]
道ばたに落ちた種とは違い、この土壌だと種は発芽します。ただ、地面のすぐ下に岩盤があって、土はあまり深くありません。そのため、早い時期から土は温まっており、種はすぐに発芽します。しかし水が少なく根も浅いので、しなびてしおれ、枯れてしまいます。この土壌でできるものは束の間しか持ちません。
福音書の文脈では、この種類の土壌はイエスのメッセージを聞いたり奇跡を見たりして、最初のうちは熱心にイエスの教えに耳を傾ける人をあらわしています。メッセージを喜んで受け入れたけれど、彼らの熱心さは個人的な信念にではなく、外的刺激や興奮にもとづいていました。だから、その外的なものがそばになく、興奮が冷めたときに、熱意も消えたのです。[4] 困難や苦難、また信仰ゆえの迫害が起こってくると、最初の熱意はしぼみ、信仰は消えてなくなりました。困難や苦難、また信仰ゆえの迫害が起こってくると、最初の熱意はしぼみ、信仰は消えてなくなりました。 「石地」の人の信仰はうわべだけで、根は深くありません。試練の時が、その人の信仰の終わりです。芽はすぐに出て、いくらか大きくなるけれど、実ができる前に枯れてしまいます。
次にイエスは、いばらの中にまかれた種について話をされます。
また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。[5]
種が発芽して育っているし、同じ場所からいばらも生えているので、これはかなり肥えた土壌のようです。この種の場合は、御言葉への反応がいいものの、実を結ぶことがないというのは明らかです。他のものに押しのけられ、最後まで成長して実を結ぶという能力が邪魔されています。
「世の心づかい」の「心づかい」にあたるギリシャ語の言葉は、「心配」や「思い煩い」と訳すこともでき、ある翻訳(日本語では新共同訳)では「世の思い煩い」としています。そのような思い煩いは、誰にでもあることで、それは生きる条件のひとつです。その日に何が起こるかはわからないのですから。何らかの害を自分に及ぼすおそれのあることは常に思いつくし、欲しいけれど手に入らないというものも常にあります。[6]
次にイエスは、良い地にまかれた種の意味を説明されます。
また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。[7]
良い地に育つのは、御言葉を聞いて悟る人です。「御言を聞いて受けいれる人」、[8] ルカは「これを正しい良い心でしっかりと守る人」[9]と表現しています。聞いて悟る人とは、御言葉の語ることを理解するばかりではなく、御言葉を受け入れ、信じ、消化し、それに身をゆだねます。そういう人が実を結ぶのです。
実を豊かに結ぶクリスチャンとは、神の言葉を聞いて悟り、その結果、自分の人生と周りの人の人生において実を結ぶ人のことです。端的に言って、真のクリスチャンは実を結ぶものです。
ある人にとっては、神の言葉は一方の耳から入って反対の耳から出て行ってしまい、根をつけることがありません。その他、熱心にメッセージを受け入れ、しばらく興奮していても、困難や問題が起こったら、そのようなテストによって決意がどれほど浅いのものであったのかがあらわになる人もいます。またある人は、福音を喜んで受け入れますが、次第に他の関心ごとによって福音が第一の場所から締め出されてしまいます。[10] この三つのタイプに共通するのは、実を結ばないということです。
実を結ばないこの三つのタイプの人たちは、初めのうち、実を結ぶ人たちと共にイエスの話や教えを聞きに来ました。大群衆がイエスの話を聞きに来ており、時には何千人もが集まっていました。何日もイエスのまわりにとどまっていたこともあります。[11] しかし、すべての人がイエスの言葉を受け入れたり信じたりしたわけではないし、聞いて信じた人も、それからずっとその状態だったわけではありません。離れて行った人もいます。それでも、イエスは引き続き説教したり、教えたりしておられました。弟子たちの多くが「去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」ようなときでさえです。[12]
イエスは、結果がどうなろうと忠実にメッセージを伝えられました。私たちが証しや教えにおいて、また他の人を弟子とするにあたって、従うべき手本を示してくださったのです。証しをする相手が全員信じるわけではなく、信じた人全員が信仰において成長し続けるわけでもありません。信仰を持ち続けることさえしない人もいます。弱ってしおれる人もいれば、この世の思い煩いに気を散らされる人もいます。私たちの役目は、福音を他の人と分かち合い、霊的に相手を養い育て、成長を促すために、自分にできることをすることです。彼らの人生に生じる結果は、その人の決断、そして霊的に成長しようという決意にかかっています。
このたとえについて熟考し、そのメッセージを自分に、また自分の信仰にあてはめてみるなら、実を結ばない三種類の土壌のひとつに自分の姿を見ることがあるかもしれません。自分がかたくなった道ばたで、神の言葉への興味を失っており、神の言われることを受け入れてもいないように感じるときがおそらくあるでしょう。そのようなときには、神が私たちに話しかけようとされても、私たちの心がなかなか反応しないので、神の言葉が私たちの心に入ってこず、効果もありません。
クリスチャン人生の初期に感じていた喜びが次第に消え去り、石地に落ちた種のように、信仰や決意がしおれていくときもあるでしょう。あるいは、この世の思い煩いや重荷、問題、病気、その他の心配の種によって気を散らされているときもあるでしょう。絶望的な困窮状態のためであれ、単にもっと手に入れることばかり考えているのであれ、金銭を追い求めていたら、それがいばらのようになって、信仰を妨げ、実を結ばせないようにしているというときがあるかもしれません。
イエスの教えにならって生きることを大切にする弟子として、私たちは自分の心の土壌の状態を自覚する必要があります。神の言葉を守って辛抱強く実を結んでいくこと、また自分の賜物や召命に応じて主のために実を結べるように、柔らかく肥沃で良き地であり続けること、それは私たち一人ひとりにかかっています。イエスはこう言っておられます。「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」[13]
初版は2016年3月 2019年4月に改訂・再版
朗読:ジェイソン・ローレンス
1 マタイ 13:3–23.
2 マタイ 13:18–19.
3 マタイ 13:20–21.
4 R. T. France, The Gospel of Matthew (Grand Rapids: Eerdmans, 2007), 520.
5 マタイ 13:22.
6 Leon Morris, The Gospel According to Matthew (Grand Rapids: Eerdmans, 1992), 347.
7 マタイ 13:23.
8 マルコ 4:20.
9 ルカ 8:15.
10 Craig S. Keener, The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2009), 384.
11 マタイ 15:32.
12 ヨハネ 6:66.
13 ヨハネ 15:8.