魂の限界を引き伸ばす
Soul Stretching
April 27, 2021
引用文集
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「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」。—2 コリント 9:8
もし神の溢れんばかりの豊かさを体験したいと心から思うのであれば、魂が引き伸ばされるための余地を作らなければなりません。魂が拡張するときの不快さで発されるうめき声は、天国の歌声を一時的にかき消すかもしれませんが、最終的には、それよりも遥かに優れた救いの音響効果で、地上にそのための空間を作り出すでしょう。
イエスの生涯は、現代の文化的基準からすれば豊かとは言い難いですが、苦しみを通して、イエスの魂は世界的な救いをもたらすまでの大きさに引き伸ばされました。イエスの苦しみは私たちの苦しみのための場所を作り、イエスの豊かな人生は私たちの豊かな人生となりました。魂を引き伸ばすことが魂を救うことになると心から信じているなら、私たちはもう少し魂のベルトを緩めてもいいかもしれません。
私たちに代わって苦しみ、死なれただけでなく、地上の試練の傷跡に包まれた死からよみがえられた神を、私たちは礼拝します。悪によって入れ墨を入れられながらも、それを勝利の勲章のように身につけた神を。興味深いことに、トマスがイエスが死からよみがえられたことの証拠を求めたとき、彼はイエスの新たな復活の力を見せてもらいたかったのではなく、むしろ苦しみを分かち合った傷跡を見たかったのです。…
神は贖う方です。悪いものを消し去るのではなく、それを良いものに変えてくださいます。新生児科医として、私はしばしば患者の両親に悪い知らせを伝えなければなりません。善良な人々に悪いことが起こる理由など私には見えないので、かなり憂鬱になることもありますが、そのとき、誰もが皆苦しんでいることを思い知らされるのです。大切なのは、悪いことが起こるのを避けられないことではなく、予期せずに起こる良いことです。
私は、贖い主が生きておられることを知っているので、困難な状況のひとつひとつに、神が健在である証拠を見ることができると思っています。神がいないのではないかと心配する代わりに、今では、神がどのような新しい興味深い方法でその存在を感じさせてくださるのか、わくわくしています。…
イエスは雛を集めたいと願う雌鳥であり、いじめられた無力な羊を気にかける羊飼いであり、私たちの痛みの涙を一滴も逃すことなく集めてくれる瓶です。イエスは抗ウイルス剤ではなく、むしろ偉大な医者であられます。… イエスは優しく謙虚に患者と接する医者であり、もし私たちがイエスの治療法を受け入れるなら、私たちの「魂に休みが与えられる」でしょう。
主は最初に私たちを座らせて、私たちの目から涙を拭ってくださいます。そうすることで、この先にある臨床的な経過をはっきりと見ることができ、「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」、約束された永遠の寛解が訪れると期待できるのです。[1]—エリック・ストランドネス [2]
安全地帯から出る
誰にでも安全地帯というものがあります。それは、自分にとって快適な状況の範囲であったり、あまり意識的に努力することなく、楽に接することができるようになった人々であったりします。そのゾーンの境界線は、しばしば私たちの恐れや、他の人に受け入れられると私たちが思っている振る舞い、そして私たち自身が苦労せずにできる努力のレベルが何なのかによって決定されます。
安全地帯は居心地が良く、楽です。問題は、私たちの決断が安全地帯によって支配されるのを許してしまうと、成長や発達の余地がほとんどなくなってしまうということです。安全地帯は、人生が提供するすべてを経験することを妨げるし、私たちが自分自身で限界を伸ばし続けない限り、心と精神と霊が自己満足に陥る危険性があります。
主が私たちの視野を広げようとしておられるのに、私たちが自分の安全地帯にとどまっていることの危険性とは、次第にありきたりな存在へと引きずり込まれ、自分の最大の可能性を探求しなくなることです。私たちは、自分がどれだけ多くのことを成し遂げられるかを見極める能力を失い、もう心躍らせる信仰の飛躍をしなくなるかもしれません。
そういった境界線を破るのは落ち着かないもので、リスクがあります。何に出くわすかわからないからです。けれども、新たに出会う人々、新たなアイデア、新たな機会に直面することの満足感、充実感、興奮はすべて、私たちをより深く、目的を持った人間にするのに不可欠な要素なのです。私たちは、自分の限界だと思っていることを超えようとしない限り、自分の可能性を完全に知ることができません。
時に私たちの快適ゾーンを破壊し、私たちの人生に新たな挑戦をもたらされるのが主の性質であり、それは私たちが自分自身に課してきた制限を厳しく見つめ直し、そこから外に踏み出すことを強います。そうすることで、私たちはしばしば、それが想像していたほど動揺させられるものではないことに気づき、多くの場合、それまではありえないと思っていたチャンスと可能性に満ちた新しい世界を見出すのです。—マリア・フォンテーン
競走を走る
霊的に引き伸ばされているときに、神への信仰が深まります。精神的に限界まで引き伸ばされているとき、古い考え方は否定され、新しい考え方がそれに取って代わります。関係性が限界まで引き伸ばされているとき、利己主義は死に、愛は成長します。さて、あなたは今、引き伸ばされているでしょうか。
神は、この人生で走るようにと私たちに召された競走に備えるために、限界が引き伸ばされる経験をさせます。そして、時折、私たちの魂は壁にぶち当たるのです。どんなに力があっても、どんなに押しても、問題はびくともしません。これが、魂が引き伸ばされるということです。多くの場合、こうした瞬間は実際のテストではなく、将来のチャレンジに備えるためのウォーミングアップにすぎません。本番の競走中にパニックに陥らないようにするために計画された基準点なのです。
神は、考え方、信仰、生きる力、愛する力が引き伸ばされていない人を、ご自分のために、あるいはご自分と共に走ることを決してお許しにならないことを覚えていなさい。だから、びくともしない問題に直面したら、深呼吸をして、神があなたの限界を引き伸ばしておられることを思い出してください。魂が引き伸ばされることで、私たちは、死ぬかもしれないと思っても死ぬことなく、やり遂げられないと思ってもそれに耐え抜くことができるようになるのです。
遅かれ早かれ、誰もが困難な時期や人間関係に直面するでしょうが、それは人生の深い膝の屈伸運動にすぎません。だから、限界まで引き伸ばされたように感じても、諦めてはいけません。それは神から与えられた人生の競走を走り、勝利するための準備なのですから。—レーマ
信仰と快適ゾーン
私たちの信仰は、何もかもが快適なとき、つまり必要なものがすべて前もって供給されていたり、自分ひとりで仕事をこなせるときや、先のことが分かっていて、荷を全部担いでも大丈夫なときには、決してぐんぐん成長することがありません。荷を負うことができず、物事が困難なときにこそ、私たちの信仰は強められます。なぜなら、イエスに荷をお任せして信頼せざるを得なくなるからです。
箴言3:5にはこうあります。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識」あるいは力「にたよってはならない」。つまり、重荷を下ろしなさいということです。そうすることで、つまり、イエスにより頼み、イエスの約束に信頼を置くことによって、信仰が強まります。
私たちは進んで信仰が引き伸ばされるよう望まなければなりません。すべてが通常通りに流れているときには、信仰が成長するチャンスはありません。私たちもまた、信仰が引き伸ばされることを厭わず、不確かに思える新しいことに挑戦する方を選ばなければなりません。
聖書を見ると、人々は、信仰を引き伸ばさざるを得ない困難な状況に置かれることもあれば、彼らが引き伸ばされるのを待ってから、神が彼らにできないことをしてくださることもありました。
イエスは、からし種ほどの信仰でも大きなことができると言われました。そして時には、それが私たちにできる精一杯ですが、そのような時には、主は私たちが持っているものを使ってくださいます。ただ、主は私たちの信仰がそのように小さいままであることを期待しておられるのではないと思います。主が何度も何度も私たちを助けてくださるのを見ると、主は私たちの信仰が成長することを期待しておられるに違いありません。私たちの信仰が成長し、花を咲かせ、実を結ぶように、私たちが信仰を養うことを、主は望んでおられると思うのです。
神は私たち一人一人のために計画と目的を持っておられ、私たちをその計画に備えさせるために、それに沿って歩ませてくださいます。けれども、私たちが一歩踏み出してその計画に向かって手を伸ばし、行動を起こして、神が私たちに望んでおられることを築き始めるには、信仰が必要です。万事が「安全」になるまで待っていたなら、何かを逃してしまうかもしれません。
あなたが人生の旅路のどこにいようと、どんな予期せぬ紆余曲折があろうと、「圧倒されそうな」状況の一つひとつを、信仰を鍛える絶好のチャンスととらえることにしてはどうでしょうか。—マリー・ストーリー
2021年4月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
音楽:マイケル・ドーリー
1 黙示録 21:4.