顔を火打石のようにする
Setting My Face Like a Flint
May 22, 2024
スティーブ・ハーツ
あなたは今、色々なことが宙に浮いていて、先が見えない状態でしょうか。もしかしたら、仕事や宣教活動、家族、あるいは人生の他の側面で、何か流動的なことがあって、変化が起きているのかもしれません。あるいは、あなたの周りの人たちが、結果的にあなたに直接影響を与えるような決断をしているか、これからしようとしていて、あなたはその結果にどう対処すべきかわからないのかもしれません。
私もそのように不確実な状況に対処したことが何度もありますが、そういった状況に直面した時、自分の思考を律することは難しいものだとわかりました。それができれば、思考が野生の馬のようにあちこち走り回ったり、あらゆる可能性や仮定を思い描いたりしなくてすむのですが。そういった時に、私の思考を「手なずける」のにかなり役立った聖句の一つが、イザヤ50章7節です。「それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。」
この聖句を黙想していた時に、聖霊が私に示してくださったことがあります。それは、私の顔を火打石のようにするとは、私の目を、不確実な状況やそれに伴って動揺する思考にではなく、主と主の素晴らしい約束に留め続けることだということです。ある聖書解説サイトでは、このように定義されています。「火打石は硬質の石です。『顔を火打石のようにする』とは、断固とした決意を意味する比喩的表現です。」[1]
数日前、家の近くの小道を兄と一緒に散歩しました。そこを散歩するのは久しぶりだし、私は運動時間も含めて、ほとんどの時間を屋内で過ごすので、そうやって外に出られることが嬉しかったです。そして、散歩している時に、主は私の顔を火打石のようにするというこの教訓の意味を、極めて明確にしてくださいました。私は目が見えないので、私にとって散歩はどのようなものなのかを、背景として少し説明したいと思います。
散歩に使っているこの道には、私が杖を使って自分の場所を把握するための目印にできるものが色々とあります。道の両側に草が生えているところでは、杖で草を確認しながら、歩道の真ん中を歩きます。また、電柱や私道などのある場所もあります。一番大切なのは、兄に私の数メートル先を歩いてもらい、その足音に耳を傾けることです。あまり大きな音ではありませんが、集中すれば十分に聞こえます。兄は必要に応じて口頭で導いてくれますが、ほとんどの場合、私が兄の足音を聞いて、自分で方向を判断します。
散歩をしていると、誰かが大声で話していたり、犬がほえたりしていることがよくあります。また、広い通りに近く、様々な種類の車が立てる大きな音が聞こえる場所もあります。この道を散歩し始めて最初の数回は、そういった音のせいですっかりわけがわからなくなり、方向感覚を失ってしまいました。しかし、何度も歩いている内に、杖で目印を追うことに集中しながら、前を行く兄の足音に耳を傾けることに慣れてきました。それでわかったのは、物音が大きくなっても、周りの音を無視して耳を澄ませば、いつも兄の足音が聞こえるということです。
主は、それこそが、私の周りで起こっている状況と、それが引き起こす思考とに対処する方法だと示してくださいました。自分が直面していることに対処するために、実際的な面でできることや、すべきことをする一方で、私が何よりも意識を集中させるべきなのは、主と主の御言葉なのです。
私は、自分の顔、また心を、火打石のようにして主と主の御言葉に集中させ、それに反するものを心に抱くことを拒否しなければなりません。それはまた、他の人たちの選択に振り回されたり、思いとどまらされたりすることなく、主が導いておられる方向に進み続けるということでもあります。[別の弟子についてのイエスの考えを知りたがった]ペテロに対して、イエスが言われた言葉を思い出します。「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。」(ヨハネ21:22)
火打石(フリント)は非常に硬い黒みがかった岩石で、聖書では硬さを示す比喩として使われています。たとえば、馬のひづめの硬さ(イザヤ5:28)、不可能な仕事のタフさ(申命記8:15; 詩篇114:8)、揺るぎない決意の固さなどです。「顔を火打石のようにする」とは、メシアが自らの前に置かれた過酷な任務を耐え抜くという、揺るぎない決意を説明するために、預言者が用いている比喩的表現です。… [2]
クリスチャン生活において、正しい道にとどまっているには、顔を火打ち石のようにする必要があります。使徒パウロは、競技の際に、賞を目指して走りなさいと教えています。(1コリント9:24–27) 彼は、走るべき行程を走り尽くすために、顔を火打石のようにしました。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:12–14) —GotQuestions.org [3]
この先に何が待ち受けているのかを、どれほど知っていようといまいと、私たちにはヨハネ10章4節に書かれた、イエスからのこの約束があります。「自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。」
キリストの体の様々な器官である私たちは、それぞれが独自の霊的成長の旅路を歩んではいますが、皆、同じ良き羊飼いであるイエスに導かれています。自分の顔を火打石のようにし、主の御顔を見て、主の御声に注意を払うなら、決して道に迷うことも、はずかしめられることもないでしょう。
2 訳注:日本語訳聖書では、「火打石」の他、「岩」「硬い岩」「金剛石」「ダイヤモンド」などと訳されています。