価値観
Sense of Values
November 19, 2015
バージニア・ブラント・バーグ
オーディオ・ダウンロード(英語) (5.8MB)
イエスが私たちに呼びかける
虚しいこの世のきらびやかな店の崇拝や
私たちを引き留める偶像の全てから離れよと
「クリスチャンよ、それよりも私を愛せよ」と
喜んでいても、悲しんでいても
労苦の日にも、安息の時も変わらずに
イエスは呼びかける、「心配の時も楽しい時も
クリスチャンよ、それらのものより私を愛せよ」と
イエスが私たちに呼びかける
あなたの憐れみにより、救い主よ、あなたの呼びかけが聞けますように
あなたに従うために心を捧げ
最善を尽くしてあなたに仕え、あなたを愛せますように
—『Jesus Calls Us(イエスが私たちに呼びかける)』、作詞:セシル・フランシス・アレクサンダー(1818–1895)
揺れ動く人生の荒海の混乱の向こうから、主が私たちに呼びかけておられるというのは、何と真実なことでしょうか! しばらく前に、海を見渡せる小さな喫茶店にいた時のことを、皆さんにお話ししたことがあります。
突然、となりのテーブルの男性が、まわりの人に聞こえるほど大きな声で、何か興味深いことを言っていることに気づきました。連れの人から「どうして君の事務所からヘンリーを解雇したんだい」と尋ねられて、その男性はこう答えました。
「だって、あいつにはちゃんとした価値観がないんだよ。人生や健康やお金の価値を分かっていない。それで事業に影響が出始めたのさ。ヘンリーに用事がある時には、いつも休憩をしている。あいつにとっては、自分の仕事よりも一杯のコーヒーのほうがもっと価値があるようだ。何度も注意しておいたんだけどね。」
それを耳にし、私は「良い地位よりも一杯のコーヒー」ということについて、しばらくの間、深く考えました。すると、柔らかな風が立ち、幾つかの小さな帆船が水面をかすめて進んでいくのが見えました。
そして、思ったのです。多くの人は人生の表面的なことをただかすめて進んでおり、真の価値観というものを持っていないと。先ほどの人が話していたあの男性のように、価値あることを締め出し、長期的に見ると真に価値あることを奪ってしまうような、人生には必要不可欠とは言えない取るに足りないことに捕らわれて、人生を過ごしています。
キリストが重きを置いたのは、常に霊のものでした。人生の大いなる優れた目標とは何でしょうか。私たちは何のためにここにいるのでしょうか。私たちは、聖なる責任を委ねられています。でも、神はこの世代にとって、第一の存在になっていません。神はあなたにとって第一の存在でしょうか。あまりにも多くの時、神が脇に押しやられ、ばかげた取るに足りない無益なものが一番にされています。
神は二番目の場所に収まるような方ではありません。私は何度もそう言ってきました。もう一度繰り返しましょう。神は二番目の場所に収まるような方ではありません。神は、ただ一番目の場所にふさわしい方であり、神が私たちに委ねられたものにも、ただ一番目の場所だけがふさわしいものがあります。それを二番に回したなら、神と正しい関係ではいられません。
些細で一時的な事柄が第一に置かれ、神や神の言葉が第二の場所に追いやられてしまうことが多々あります。そうなると、人生のバランスがすっかり崩れ、その結果残るのは、不調和、混乱、無秩序ばかりです。あなたも私も分かっているように、私たちの国やその贅沢と安楽な生活に深刻な事態が起きており、そのせいで人々は神を忘れ、指導者の多くは神を完全に排除してしまっています。
人生の大いなる現実は、あなたの人生において正しく捉えられているでしょうか。あなたには正しい価値観がありますか。それとも、些細な取るに足りないことや物質的なものを、神の言葉を読んだり祈ったりすることよりも優先しているのでしょうか。「忙しくて時間がない」と言い訳をしているのでしょうか。あなたの価値観について、自分の心に聞いてみたほうがいいでしょう。
聖書には、神の言葉そのものが収められています。御言葉である貴重な聖書には、命があります。魂の食べ物であり、魂の成長には絶対不可欠なものです。そのための時間がないのなら、魂は飢えに苦しみ、霊的な発育が止まってしまいます。祈りは神との交わりであり、祈らないなら、力を受けることがなく、自分自身の力や知恵で動き回ることになります。
神の言葉には、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」とあります。一方、「わたしを強くして下さるかた[キリスト]によって、何事でもすることができる」とも書かれています。そのような強さは、ただ祈りと、神の言葉を読むことからしか得られません。さっと聖書の一節に目をやるとか、ベッドに潜り込む前に半ば眠った状態で小さな祈りをするといったことでは、必要な力はなかなか得られません。それは、「まず(第一に)求めている」こととは言えないのです。
私の知り合いの女性で、少しの間落ち着ける小さな家を建てるために、長年節約し、こつこつ、あくせく働いた人がいたのですが、建て終わってわずか数ヶ月後に病いで倒れました。見舞いに行った私に、彼女はこう言いました。「もう長くはないの。私には時間がないのよ。それなのに、自分にあったわずかな時間を、これから行く世界では何の価値もないものに費やしてしまったわ。」 何が本当に価値のあるものかに気づいたけれど、もう手遅れだったのです。あなたにとっても手遅れになるのでしょうか。死ぬ時には、衰えかすみゆく目が、正しい物の見方をできるようになるものです。
時に、人生の様々な出来事について、それが最終的にどこへ行き着くかを見られたらいいのにと思うことがあります。そうしたら、私たちの人生はどれほど変わることでしょうか。聖書を読んだり祈ったりすることを優先させないことについて、愚かな言い訳をすることも容認することもなくなり、永遠のものが呼んでいるのに、取るに足りないことに時間を費やすこともしなくなるでしょう。
永遠ではなく、今の時間のために生きている人は、真の価値観を持っていません。毎日誰かが、言葉ではないかもしれませんが、行動によってこう語っています。「天国で豪邸に住めるかどうかなんて気にしない。そういった永遠のものには興味がない。この地上にいる間に、豪邸や冠が欲しい。少しの名声や栄光、そして、ささやかな装飾品、人からの誉れ、一時的な罪の快楽を手に入れたい。そうすれば、この地上で少し満ち足りることができる。」
彼らに義の衣と栄光の冠、そして素晴らしく立派な永遠の家を与えようと言っておられる王の王であり主の主である方は、何の価値もない「他のもの」のせいで脇に追いやられています。
頭を垂れて、この短い祈りを祈ってください。
「天におられる父よ、どうか私たちが鋭い価値観を持てるよう、そして、私たちが地上に置かれたのは、今の時のためではなく永遠に備えるためであることや、私たちが天国の市民であることを、よく理解できるよう助けてください。」 そのことを理解するのを、神が助けてくださいますように。
ラジオ番組『Meditation Moments』から書き起こしたものを一部変更
2015年11月アンカーに掲載 朗読:キャロル・アンドリュース