時があり、季節があり
Seasons
July 1, 2020
サリー・ガルシア
最近よく耳にすることですが、今この瞬間を生きよ、マインドフルネスを実践せよ、ゆっくりと深く息をせよ、といったことが説かれています。でも、私たちの瞬間は単なる「瞬間」にとどまらず、「季節」ほどの期間として捉えるべき時もあります。そして、一息でそれを乗り切ることはできません。歳を重ねることで、一つ素晴らしいのは、私も友人たちも、これまでそのような「季節」を数多く経験することができたということです。季節ごとに洞察が深まり、経験が積み重なって、かけがえのない宝石となってきました。
初めからそう感じていたわけではありません。若かった頃は、難しい状況になると、障害の先にあるものを見ようとはしなかったし、その問題がいつまでも続くように感じました。なぜなら、問題はいずれ過去のものになる時が来て、大概はその経験からより賢くより良くなれるのだ、と分かるほどの人生経験がなかったからです。
ある日、聖書から伝道の書第3章を読んでいて、いわゆる「エウレカ体験」(一瞬の閃きで何かを発見すること)のように、いえ、もっとぴったりの言い方をすれば「主の声」が聞こえたかのように感じて、私の考え方が瞬時に変わりました。私が読んでいたのは、次の箇所です。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、 抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
—伝道の書3:1–8
私は深い感慨を覚え、この箇所を暗記しました。(正確に覚えるのはなかなか大変でした。) そして、その言葉を思い返すたびに、それがさまざまな出来事と重なっていくのです。たとえば、「抱く時と抱くことをやめる時」は、愛する人が遠くにいる時のようであり、また、今この記事を書いている時のように、衛生上の理由で接触を避けるという形で愛を示すことのようでもあります。
2010年にチリで大地震と津波があった後、私たちは幾つもの家族と知り合い、親しい友だちになりました。彼らは壁の薄い仮設の住宅で、雨が多くぬかるんだ寒い冬を三度も過ごすことになったのですが、それはまるで永遠に続くかのようでした。その時、誰にとっても当面の目標だったのは、暖かくて湿気のない、ちゃんとした家にまた住みたい、ということでした。その三年間、彼らがくぐり抜けてきた「壊す時、建てる時、捜して手に入れる時、失う時、保つ時、捨てる時」は、かなり強烈な経験となりました。そして、最後の仮設キャンプが閉鎖される日が来るまでには、全家族に自分の家やアパートがあり、それは「笑う時、踊る時」となったのです。
さまざまな「時」を経て人生は続き、キャンプにいた時間は彼らの人生の季節の一つとなりました。あの地震と津波の夜から10年が過ぎましたが、記憶や経験、「泣く時」や「悲しむ時」、「笑う時」や「踊る時」、そのすべてがこの10年という人生の季節の一部となっています。それぞれの家族が、途方もない難題に立ち向かい、見事に切り抜けてきた者として、その期間を振り返ることができます。来たるべき季節を乗り切るための精神的回復力を身につけたのです。
私は宣教師として共同生活をしたことがあるし、また教師としても、ホスピタルクラウン(病院で心のケアをする道化師)や救援ボランティアとしても、さまざまな人生の季節を過ごし、「泣く時」も「笑う時」も経験してきました。今振り返ってみると、一つ一つの季節に、かけがえのない大切な思い出があります。
先日、他にもさまざまな時や季節があると考えていました。
子どもの時と大人になる時、若い時と歳を取る時、
親になる時と祖父母になる時、素早く動く時とゆっくり動く時、
世話する時と世話してもらう時、丈夫な時と病の時、
学ぶ時と教える時、成功する時と失敗する時、
勝つ時と負ける時、慣習に気を留める時と慣習を破る時、
間違いを犯す時と正しくできる時、赦す時と赦される時、
富める時と貧しき時、あり余る時と節約すべき時。
私たち夫婦は現在、穏やかな季節のただ中にあります。高齢者と呼ばれる年齢ですが、健康に恵まれ、頭もしっかりしているし、体もよく動かせます。それと同時に、ありがたいことに、ゆっくりと自分のペースで生活する余裕もあります。前よりも人生をじっくり味わえていると言えるでしょう。私は、読書や勉強により多くの時間を割いており、関心のあることについて執筆する時間もあるし、趣味も幾つかできました。気の合う仲間もたくさんいます。私たちが霊的に奉仕している相手もたくさんおり、一番ありがたいのは、そのように今でも神のメッセージを伝えられていることです。
ほとんどの人は、自分の晩年がどんなものになるだろうと考えて、やや不安を覚えます。「ああなったらどうしよう」という思いが頭の上にのしかかるのです。でも、どんな「季節」においても、神は私たちと共にいてくださるということがよく分かってきました。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる」神[1] は、今ここで私たちとも一緒にいてくださる方であり、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」のです。[2]
1 イザヤ 57:15.
2 伝道の書3:11.