救いの恵み
Saving Grace
April 13, 2015
マリア・フォンテーン
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誰でもいつかは、自分が汚れていて、霊の内で劣悪であると感じるものです。自分が主の愛を受けるにふさわしいと感じる人など、一人もいません。そして信仰によってではなく、目に見えるものによって歩み、神の言葉に信頼するのではなく、自分の感じ方に基づいて判断するなら、主がなぜ自分のような者を愛し、望まれるのかと疑問に思うのも当然なことです。
私たちの誰もが汚れていて罪深いというのは、紛れもない事実ですが、神は私たちをご覧になる時、そこに罪を認められません。神は完璧な方であられ、罪を受け入れることはできませんが、私たちを見る時には、そこにイエスを見られるのです。「わたしたちのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」[1] イエスは私たちの仲保者(仲裁者)です。イエスこそが、私たちのために神にとりなして下さる方なのです。私たちがあまりにも不完全で、悪く、罪深いのは確かですが、それでもイエスからすれば、罪深すぎるということはありません!
イエスは代価を支払い、私たちのすべての汚れや不完全さや罪を、その身に負って下さいました。私たち自信は皆、神にとって汚すぎます。他の誰かよりも罪深いかどうかは、私たちの救いに何ら違いをもたらしません。イエスの血によって救われている限り、私たちの過去と現在と将来の罪は、神によってゆるされています。そして神の目に映るのは、イエスの義なる性質だけなのです。
私たちの罪深さの度合いは、主にとってさほど問題ではありません。すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、もし救いや神の祝福が私たちの正しさにかかっているとしたら、私たちの誰一人としてそれにふさわしくありません。[2] しかし、イエスに感謝することに、私たちはそれについて思い煩ったり、そのせいで神から遠く離されていると感じる必要はありません。実際、そのせいで神から離されるわけではないのですから。イエスが私たちの罪の代価を支払われたので、私たちはもはやそれらの罪によって、主から隔てられてなどいません。主は私たちの正しささえも、「汚れた衣」に等しいと言われています。[3] イエスだけが唯一の善良で清く完璧な方ですが、私たちは主と結ばれ、主と一つになっているので、神がご覧になるのは、ただイエスだけなのです。私たちが他の人々に比べてどれほど罪深いかは、神にとってさして重要ではありません。私たちは皆神の子供であり、神は私たち全員を愛して下さるからです。
いったん主が私たちの心を清められ、イエスが私たちの内に住んで下さるなら、私たちがそれまでどんなにひどい状態であったかや、罪がどれほど深いかは、重要なことではなくなります。主が私たちを、ありのままの姿で受け入れて下さるからです。時として、私たちは、主から愛してもらえるほど十分良い人間になろうとしたり、どれほど主を愛しているかを証明するために、殉教者になってみようと思ったりしますが、そんなことをしても、自責の念に陥るだけでです。私たちの肉のわざでは、条件を満たすことができないからです。
イエスに近くあるかどうかで悩んでいるなら、主がどんな人をご自分に近いと言っておられるか知っていますか? 神の言葉にはこうあります。「主は心の砕けた者に近い。」[4] ですから必死になって、心砕ければ砕けるほど、主はあなたに近づいて下さるのです。
私たちが最も心砕けて、必死になっている時には、しばしば主の存在をも、よりはっきりと感じます。そんな時私たちは、死に物狂いで主にしがみついているので、主を肌で感じるのです。
主だけに目を留めるなら、その時私たちは、もう少し主をはっきりと見ることができ、よりはっきりと感じることさえできるようになります。あなたがそのような状態になり、大きな失敗を犯してしまったとわかっていて、そのことを悔いているなら、そんな時にこそ、主はあなたの最も近くにおられるのです。つまり、自分が悪く汚く、泥まみれであると感じる時、そんな時こそ主は、はるか彼方にではなく、あなたの一番近くにおられるということです。たとえそんな風に感じなくても、主がそう言われたのですから、信仰によってそうだとわかります。そして、自分が悪く、心砕け、悔いくずおれている時にも、主が近くにいて下さると信仰によってわかっているなら、それが何らかの形で自分で稼いだ結果として、もらえるものではないということもわかるのです。
あなたがどんなに罪深いかに関係なく、主は自分を愛して下さっていることがわかります。主はあなたを憐れみ、気遣っておられます。私たちが罪びとであるからといって、私たちのために死んで下さるほど、愛して下さったのです。[5] そして弱ければ弱いほど、私たちにはもっと主が必要になり、主は私たちにもっと近づいて、助けようとして下さいます。「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。」[6]
「一体なぜ主は、私なんかに近づきたいなどと思われるのだろう?」と不思議に思うかもしれません。私たちのような者に、なぜ主が近づきたいと思われるのか、私にはわかりませんが、主はそうしたいと望まれ、ご自分の御言葉の中で何度も繰り返しそう語られています。ただ御言葉を信じればいいのです。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」[7]
なぜ神は私たちのような者を望まれるのでしょう? 私たちは皆同様に、罪深い存在だというのに。私たちは神の目から見れば、皆似た者同士です。けれども、神はそれをご存じで、それでもなお私たちを愛し、私たちに近づきたいと望んでおられます。イエスが地上に来て私たちを救って下さったし、それが神のご計画であるからです。神は私たちを愛しておられます。私たちはその理由をはっきりと知る必要はありません。なぜ私たちのような者を神が望まれるのかは、確かに理解しがたいものの、神は実際にそう望まれるのであり、御言葉でもそう言っておられるのですから、信じなければなりません。物事の背後にあるあらゆる理由を知り、なぜ物事がそうなっているのかを、分析する必要などないのです。
なぜ自分は過去に信仰がなかったのだろうと、思い煩うことはありません。過去は過去であり、もう終わったことなのですから。大切なのは、自分が今しているべきことをし始めることです。なぜ過去について思い煩うのですか? それはもう終わり、過ぎ去りました。こぼれたミルクのことで泣いても仕方がないし、自分を責めても何にもなりません。主はあなたを責めたりはされません。ただ向きを変えて、これからは頑張ってほしいと願っておられるだけです。
主はただ、ご自分が愛していることを、あなたに信じてもらいたいのです。そして、御言葉を読み、それを信じ、受け入れ、それによって変化を遂げてほしいと願っておられます。御言葉は単純な真理ですが、そのすべてを分析し解明しようとするなら、かなり複雑なものにもなり得るに違いありません。主はおそらくそれが理由で、よく個人的な預言やメッセージを与えられるのでしょう。取るに足りない小さな存在であるあなたに、その欠点や弱さにもかかわらず、主が直接そのような預言を与えられたことを考えるなら、それは素晴らしく、非常に驚くべきことです。そのこと自体、主がどれだけあなたを気遣い、愛しておられるかの証明であり、それによって、あなたが主にとってどれだけ特別な存在であるかがわかるのです。
初版は1990年8月。2015年4月に改定・再版。
朗読:デブラ・リー。