神の贈り物を思い起こす
Remembering God’s Gifts
May 15, 2024
マリアンヌ・パラディーノ
最近、聖書の中で「リメンバー(思い起こす、覚えている)」という言葉が、どの訳本の第何版かにもよりますが、240回から352回も使われていることを知って、驚かされました。積極的に思い起こすこと、神のされたことや約束を思い出して、それが過去にどのように成就されたかを振り返ること、神の教えを思い起こし、それが現在にどのように適用され、将来に向けてどのように私たちを励ましてくれるかを思い起こすことは、神の言葉の中心的なテーマの一つです。旧約聖書に登場する先人たちは、神の力あるわざや出現を思い起こすために、何度祭壇を作ったことでしょう。イエスは、弟子たちとの最後の食事、すなわち、神が大昔にご自分の民をどのように救い出されたかを思い起こすための過越の食事の際に、私たちに祝うよう教えた唯一の公式な儀式である聖餐式を行って、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて(リメンバランス)、これを行いなさい。」(1コリント11:24 新改訳2017)
デビッド・ホーナーは、思い起こすことは神の民としての私たちのアイデンティティと目的を守る方法だと説明しています。それはまた、神の主権と忠実さを認め、神が私たちのためにしてくださったこと、そして今もしてくださっていることのすべてに感謝と賛美を捧げる方法でもあります。聖書では、思い起こすことは単なる精神的な実践ではなく、行動への呼びかけです。信仰を実践し、私たちの人生に対する神の目的を果たすための方法なのです。まとめると、聖書的な意味での「思い起こす」とは、神の御言葉とみわざを心にとどめ、信仰を実践的に生き抜く方法というわけです。私たちの物語を忘れることは、私たちが何者であり、なぜここにいるのかを忘れることになります。思い起こすことが聖書の中心テーマであるのももっともなことです。神は、私たちを否応なく忘却へと引き寄せる人間の意識の引力を知っておられます。神の民は常に、自分たちが何者であり、誰のものであるかを忘れる危険にさらされています。[1]
申命記には、約束の地に入る前のイスラエルの民に対してモーセが最後に語った言葉が記されています。モーセは、荒野での長い年月を通して、彼らが学んだこと、主が彼らを守るためにしてくださったことを積極的に思い出すことの重要性を強調しています: 「気をつけなさい。神様がしてくださったことを忘れてはいけません。これから先もずっと、神のなさったみわざを思い出しなさい。子どもにも孫にも、すばらしいみわざについて話してやりなさい」(申命記4:9 リビングバイブル)。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(申命記8:2,18 新共同訳)。
近年、私はクリスマス前のアドベント(待降節)を、神が御子をこの世に遣わし、私たちの間に住まわせることによって人類に与えてくださった驚くべき愛の賜物を思い起こす時として、またレント(四旬節)を、イエスが十字架上で私たち一人ひとりのために犠牲となり、私たちが生きることができるように死なれたことを思い起こす時として、守るようになりました。これらは、主の愛が自分にとって何を意味するのかをより深く思い、感謝の気持ちを表すために自分に何ができるかを考える特別な時なのです。
このような時に主が私に強く印象づけてくださったひとつのこととは、主の祝福と憐れみを毎日記録することの重要性です。日々、主がどのようにして多くの方法で愛を現してくださるかを記録するのです。それは、主の臨在の単純な現れかもしれないし、私の祈りへの答えかもしれません。その日起こった素晴らしいことかもしれないし、当たり前のことと思いがちな単純な喜びかもしれません。一日の終わりにこれらを記録することは、人生の浮き沈みを信仰に満ちた賛美に満ちた形で乗り切るための最も強力なツールのひとつです。そのように感謝しつつ主の御前に出ることは(詩篇100:4)、思わず見過ごしていたかもしれない、受けるに値しないほど多くの主の贈り物に気づく助けとなります。私は自ずと、周りの多くの問題や必要性に目を向けがちで、日々新たにされる主の尽きることのない憐れみ(哀歌3:22–23)や、数多くの神の愛の現れを見逃してしまうことがあります。たとえば、ストーブの上のおいしい食べ物の香り、木々の間から昇る朝日、誰かが時間を割いて送ってくれた元気の出る歌、わが家のドアをノックしたときの孫の笑顔などです。
パンデミックの最中に読んだ本で、私の霊を鼓舞してくれたのは、アン・フォスカンプの『千の贈り物(One Thousand Gifts)』です。この本の中で、彼女はこのような疑問を投げかけています。「締め切り、借金、ドラマ、日々の仕事の中で、どうすれば喜びを見出すことができるのでしょう? 毎日が厳しく、長く、時に暗い中での、感謝の生き方とはどのようなものでしょう? 神は今ここで何を与えてくださっているのでしょう?」 彼女の本は、苦難の中でも喜びの人生を送るための刺激的かつ実践的なガイドであり、神の日々の祝福に気づき、私たちが思いやりのある父から受け取る贈り物として、これらを書き留めるよう勧めています。一日の終わりに、それを探し、味わい、注意を払い、神のいつくしみと誠実さに驚嘆する時間を取らないなら、私たちはしばしばそれを見逃してしまいます。そうすることで、私たちは最も困難な時であっても、いつも支えられていることを知ることができるのです。
私は長年、祈りの日記をつけており、祈りの願いを書き留め、答えられたときにそれを記録し、また主との時間の中で得たメッセージを書き留めています。これらの日記を読むと、過去10年間に直面した多くの変化や新たな紆余曲折を経ても、主が私たちの人生に常にいてくださったことを知ることができ、振り返るたびに励まされるのです。新たな試練に直面したとき、主の絶え間ない配慮、主の臨在の多くの現れ、果たされた約束、未知の領域や不可能な状況を通しての忠実な供給と導きについて書かれたことを見直すことは、大きな慰めになります。それは、主が私たちを決して離れることも捨てることもなかったこと、そして、ジョン・ニュートンがいみじくも語ったように、「私の罪は多いが、主の慈しみはもっと多い」ことを思い出させてくれるのです。
『千の贈り物』を読んだ後、私は毎日、その日に受け取った贈り物を10個書き留めることを習慣にしました。もちろん、大きな贈り物や、供給、保護、癒し、また、愛する人や友人のために祈りに応えてくださったという奇跡もありますが、そういったことは毎日起こるわけではありません。むしろ、この新しい習慣は、私の日々を明るくしてくれる、あまり目立たない多くの贈り物に注意を向けるよう助けてくれるのです。主が「見ておられる」神であることは知っていますが、私は最悪の状況の中にあっても、主がどれほど共におられ、気遣っておられるかに気づかないことが多いのです。「すべてのことにおいて感謝しなさい」(1テサロニケ5:18 新改訳2017)。すべてのこと「のゆえに」ではなく、すべてのこと「において」です。主は、ご自身の気分を良くするために私の賛美を必要とするのではありません。しかし、より意図的に主の慈しみを探すことで、私は元気が出るし、主が本当にその場にいて、常に忠実で、常に愛し、常に気遣っておられることがわかります。
その日の主の「贈り物」を数え始めると、1つか2つしか思い浮かばないことがよくあります(「贈り物」は、他の日にはない、その日だけのものを記すようにしています)。そのことから、私にとって、良いことを忘れ、足りないことに焦点を当てるのがいかに簡単なことかがわかります。しかし、ひとつひとつ挙げていくうちに、その日あったばかりなのに忘れていたことがどんどん浮かんでくるのです。10個挙げる頃には、さらに追加できることが思い浮かびます。これは、私の思いを主の御言葉にもっと沿ったものにさせる助けとなる、有益で霊を高める実践です。いろいろなことを心配したくなる私の性分に対処するのに役立ちます。 そして、否定的なことに目を向けがちなこの世に倣うのではなく、心を新たにすることによって、造りかえられる(ローマ12:2)ことが容易になるのです。
イエスは、2つのパンと5匹の魚について感謝を捧げることによって、大勢の人々に食事を与えるという奇跡を始められました。そして、誰かがそれを数えて記録したのです。小さな(そして大きな)祝福、すなわち主からの日々の贈り物に気づき、それを積極的に記録することによって、私は平安と喜びの霊で歩むことができるようになり、私の周りで主の力が働いているのをより多く見ることができるようになりました。
1 次のリンク先のページにあった文章をいくらか言い換えたもの: https://www.biblica.com/articles/remembering-to-remember-the-stories-of-gods-people/