理にかなった信仰
A Rational Faith
September 14, 2016
エルサ・シクロフスキー
感受性の強い大学一年生の頃、私は西洋文学の最初の授業に出て、大好きなチャン教授がアブラハムとイサクの物語を朗読する姿を見つめていました。子どものいない夫婦に息子を授け、その数年後には父親にその子を殺すよう命じ、それが実行される直前に気を変えられた神といった、いかにもユダヤ人らしいあからさまな語り口で、数々の深遠な物語が語られる創世記の独特さに、仲間の一年生たちは混乱していました。それは私たちの大半が、あのすてきな「神話」という言葉から思い浮かべるものとは、まるで違っていましたが、教授はそれがただの神話、作り話だと言いました。
教授はその分厚い書物から目を上げて、当惑した学生たちに同情するかのように微笑むと、こう言いました。「私がクリスチャンではないのはそれが理由です。ヘブライ語聖書の神は理にかなっていません。信仰とは非合理的なものです。」
「それから」教授はこう続けました。「このクラスにクリスチャンの人がいるなら、私と議論しようなどと思わないように。私たちが学んでいるのは文学であって、宗教ではないのですから。」 私はおとなしく自分の燃えるような舌を抑えました。
教授によると、私が子どもらしく元気に「イエスは私を愛している」を歌うことを覚えた頃からずっと、自分の礎となってきた私の信仰は、わざわざ理解しようとすること自体が奇妙な、馬鹿げた概念です。信仰を持つ人は、自分が満足するために人に苦痛に満ちた実験をくぐらせる、当てにできない風変わりな神のせいで、奇妙な境遇に陥るので、チャン教授のように聡明な学者が、そんなものを信じるわけがないというのです。
このような発言を聞いたのはこの時が初めてではありません。幼い頃から日常的に個人伝道をしていたので、救いのメッセージを受け入れるよう説得しようとした相手に、うさんくさげにじろじろ見られたり、大笑いされたりすることには慣れっこでした。しかし、そんなにも尊敬していた人に同じことを言われた時には、そのせいで山ほど疑問が浮かび上がってきました。なぜ信仰はそんなにも理解し難いのか? それが私たちの永遠の宿命や、現在の幸福にとってそんなにも重要なものであるなら、なぜそれがそんなにも奇妙で、不快なものとしてさえ扱われるのか? なぜ神は聖書をそんなにも謎めいたものにしないで、ネットによく載っている自己啓発の記事のように、良い人生を送るために重要なすべての価値観を、3つの主要なポイントにまとめて、それに明確な要約や要点を添えてくれなかったのか?
さらに悪いことに、自分の霊的な経験に照らしてみると、彼女の言葉は嫌にもっともらしく聞こえました。神の方法が不条理で、苦痛や苦闘を招いているように思われたことが、何度もあったのです。不明瞭さの背後にある目的が、はっきりとわかる時もありますが、多くの場合は答が見つからなくてつらい思いをしました。非常に大勢の人々が理にかなっていないと言い、実際に私の人生に不確かさを増し加える信仰に、果たしてしがみついている価値があるのでしょうか?
突然、自分でも驚いたことに、高校時代に生物の教科書で読んだある言葉が、頭に浮かびました。
「もし、脳が私たちに理解できるほど単純なものであったなら、私たちは単純すぎて脳を理解することなどできないであろう。」[1]
脳が理解不可能なのは、それが注目に値しないような失敗作だからではありません。それはただ脳が、私たち人間の頭が分析し調べ上げることのできる以上に素晴らしく、驚くほど複雑なものだからです。人が脳を理解できないという事実は、ワトソンが生物学を捨てて、科学をでたらめだらけのたわごとであると宣言する理由とはなりませんでした。むしろ彼は、そのような人の心の数々の未解決の謎ゆえに、一層それに夢中になり、その秘密の解明に一生を捧げる価値があると考えたのです。
人の脳の不可解な複雑さを、冷静に受け止めているライアル・ワトソンのことを思うと、神を信じない人に、信仰について必ずしも満足に説明できるわけではなくとも、そのような信仰を持つことには利点があることについて考えさせられました。アブラハムは神がその約束を守り、自分の子孫を増やして下さると信頼することができました。理不尽な命令であっても、それを下された神を知り、愛していたからです。私の場合も、神との関係において問題に直面し、神が導いておられるように思えることに納得できない時、自分が求められたことを行う力を与えてくれるものは、ただ、私たち、つまり神と人間とをつなぐ愛だけです。理性と論理が支えとならない時、愛が勝利を収めます。そのような観点からすれば、愛ゆえに従うことは正しいことであり、理にかなっているのです。
それに、聖書のあらゆる出来事について、納得のいく説明をすることが私にできるなら、また、キリスト教のあらゆる霊的な主張について、その証拠となる書類を添える方法がわかっていたとしたら、神の御力に頼って、神を深く知り、生活のあらゆる分野で神にかかわって頂くために、時間や労力をつぎ込む理由もなくなってしまうでしょう。私は全部の答を知るようになり、神の入る余地はなくなってしまいます。別に、永遠に暗闇の中で手探りすることに甘んじなければならないと言っているのではありません。イエスは答をお持ちなので、数々の疑問を抱くことで、私はクリスチャンとしての歩みの一歩ごとにイエスのもとに戻って、主を尋ね求め、主の御霊を切望するようになるのです。そして容易には答が見つからないような難関に面するたびに、人として持って生まれた不完全さや、自分には救いが必要だということを思い出します。
自分はキリストに強めて頂いた確信によって、信仰にしがみついていればいいのだとわかるようになりました。信仰を持つことの難しさ自体が、実際にその価値を証明しているからです。証明可能な科学的方法によって、あらゆる面において機械的で均整の取れた価値観が持てるなら、信仰は必要ありません。そのような価値観は確かに合理的かもしれませんが、それも限りある人の頭の中での、制限された合理性にすぎません。キリスト教はその信者たちに、彼らが持つ先入観にすんなりと合致するような、簡潔な価値観や教義を与えることができるとは述べていません。むしろ、私が現在理にかなっていると考えるものを超越した世界に入るよう招いているのです。神学者ピーター・クリーフトはこう述べています。「信仰は、信仰を抱き難い世界においてのみ存在する。」 神への信仰が、人の五感に訴えるようなものに変わったとしたら、それが私たちを、自分たちの道よりも高い道を知られる神へと導いてくれることはないでしょう。[2]