聖句で祈る
Praying the Scriptures
February 5, 2019
引用文集
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聖句で祈ること、つまり実際の聖書の言葉を用いて、それを祈りにすることは、20年以上も前に私がやり始めた習慣です。洗濯物の山がそびえ立ち、祈る時間があまりなかった頃に。(6年間に4人の子どもが生まれ、私は一日を時間ではなく、仕事量で測っていました。)
うんざりするような気分を蹴散らすために、退屈なおきまりの仕事を、祈りの促進剤として用いたものです。延々とサッカーショーツを畳みながら、コロサイ3:12の言葉を借りて、「ヒラリーに憐れみの心と慈愛を身に着けさせてください」と祈りました。「謙遜、柔和、寛容を身に着けられますように」と。
今では子どもたちは大人になっていますが、私の聖書の余白には、彼らの成長期の証しが残っています。私は彼らの安全のために、[1] 良い友人関係のために、[2] また慎み深さ[3] のような性格的資質のために祈り、他にも数多くのことについて祈りました。今でもなお、大人になった子どもたちの必要を気遣う際には、聖句を探り、彼らの仕事や結婚生活や信仰などあらゆることのために、約束や祈りを促してくれるものを、そこから引き出しています。
そして、それらの長い年月に私が学んだことは、自分の子どもであれ夫であれ、あるいは仕事仲間や友人であれ、誰のために祈っているかは、あまり重要ではないということです。聖書によって思いを活性化してもらい、神の言葉が私たちの祈りだけではなく、物の見方にも影響を及ぼす時、私たちはもっと神の御心に沿ったことを願い求めるようになります。まるで、天にいます父なる神と手を取り合ってパートナーを組み、神がこれまで計画されてきた数々の偉業を成し遂げているかのように。はっきりとはわかりませんが、これこそイエスがヨハネ15:7で、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」と言われた時に、意味しておられたことなのだと思います。
私はこれまでに求めたものを、すべて受け取ってきたでしょうか? いいえ。それは時として大変だったでしょうか? ええ、そうでした。私の子どもたちはつらい目に遭ったことがあるでしょうか? ありましたとも。けれども、神は忠実であられ、私たち自身の計画にではなく、神の未来像に信頼を置くよう教えて下さいました。そして、幾度となく、神の言葉が空しく帰ることはなかったのです。—ジョディ・バーント [4]
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聖書を読むことと祈ることは、神と深い関係を育む主要な方法です。事実、(断食や学習や簡素さや、礼拝や告白や奉仕といった)他のすべての霊的鍛錬は、聖書を読んで祈るという鍛錬を基盤としています。多くの人は、祈りや聖書を読むことを、(まず祈って、それから聖書を読むといったように)別々の霊的活動であると考えがちですが、それらが「聖句を祈る」という行為の内に組み合わさると、さらに強力なものになり得るのです。個人的には、私自身の霊的生活の中で、日々聖句を祈るというこの過程ほど自分を強めてくれるものは、他にありませんでした。
あなたはこれまでに、何を祈るべきかわからなかったことがありますか? あなたの祈りは味気ない繰り返しになっていますか? 「間違った」祈り方をしているように感じていますか? 神の御言葉を祈るなら、祈りに対する確信は強まります。聖句を祈るなら、聖書の言葉や感情を用いて、もっと自分の祈りに確信を持つことができるのです。「聖句を祈る」とは、どういうことでしょうか? エヴァン・ハワードはこう書いています。「聖句を祈るとは、聖書の特定の言葉を中心として、祈りの時間を組むことです。」 それは、聖書の祈りを一語一句自分の祈りとして祈ること、祈りの中で聖書の特定の部分を自分に当てはめること、あるいは聖書の様々な主題を通して祈ること、などを指しています。—フィル・コリンズ [5]
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聖書の多くの部分は祈りなので、ただそれらを読むだけで、祈っていることになります。しっかりと目を覚まして、その行為に意識を集中させているならば。パウロは自分が手紙を書いている相手のために、無数の祈りを祈りました。…また、詩篇の大部分が祈りであるし、イエスは私たちに幾つかの祈りを与えられました。私は自分の祈り方の指針として、IOUSという詩篇からの頭字語を用いています。
I ―私の心をあなたの証しに傾けさせて(incline)下さい。[6]
O―私の目を開いて(open)くすしきことを見させて下さい。[7]
U―心をひとつにして(unite)御名を恐れさせて下さい。[8]
S―あなたの慈しみをもって私を飽き足らせて(satisfy)下さい。[9]
…聖句を読んでいる時、それは私たちが主をほめたたえることができるよう、神やキリストについて何かを教えてくれるか、あるいは、私たちが主に感謝し、主への信仰を表明できるよう、神やキリストや御霊がどんなことをして下さったかを教えてくれます。あるいは、私たちが助けを求めて呼ばわることができるよう、神が私たちに何を求めておられるかを、あるいは、私たちが罪を告白できるよう、私たちがすべきなのにしなかった何かについて教えてくれるのです。ですから、私には、聖書のほぼ全体がこの4つの内の一つ、あるいは幾つかのことを示している様に思われます。つまり、何か神についてのこと、何か神がして下さったこと、何か神が期待しておられること、何か私たちがしなかったこと、です。それが自然と、神をほめたたえ、神に感謝し、神に助けを叫び求め、神に罪を告白するという行為につながるように。—ジョン・パイパー [10]
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祈りによって聖句を再び神へと携えてゆくことは、深く祈り、豊かな祈りの語彙を育むための効果的な方法です。神ご自身の言葉を用いて賛美し、祈ること以上に、神に栄誉を帰す素晴らしい方法があるでしょうか? それはまた、祈っている閒に聖句を深く探るための一手段でもあります。
祈る際に詩篇は好んで選ばれますが、聖書のどんな聖句からでも祈ることができます。…
聖句を祈る方法:
文章をゆっくりと読み、それらの言葉を自身に浸透させ、聖句をかみしめる。紙に書き留めてもいいかもしれない。
その文章が自分に何と告げているかについて、じっくりと思い巡らす。それはたった今、自分の人生にどう当てはまるだろうか? それは自分が祈る必要のある事柄に、どう当てはまるだろうか? 特に印象的で、心に語りかける言葉は何か?
その文章を祈りで返すという形で、神に答えましょう。文章の中に「私は」や「私を」といった言葉を挿んで、それをもっと自分向けに変えるか、あるいは他の誰かのために聖句で祈っているなら、そこに友人の名前を入れるのです。祈りで答える際には、次の3つの方法で答えることを検討してみましょう。
- 神の大いなる恵みを喜ぶ。聖句を通して神を賛美する。
- 過ちや罪を悔い改める。その文章のどこに良心がとがめるのだろうか?
- 助けが必要な分野について祈り求める。その文章を用いて、神の約束や祝福が与えられるよう求める。
しばし静まって耳を傾け、祈りに対する神の答を受け取りましょう。神はあなたの祈りへの答として、あなたの心に何を示されているでしょうか?
聖句で祈ることは、素晴らしい祈り方です。自分の祈りの言葉が「十分」ではないと思っても、聖句にはすべてが揃っています。心にあることをどう言葉にすればいいかわからなくても、既にそれを余すところなく語っている聖句があることでしょう。神の言葉で祈ることによって、御霊に祈りを導いていただき、祈りの語彙を増やし、聖句を祈りの指針として用いましょう。—キャサリン・シャーレイ [11]
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弟子たちがイエスに「主よ、わたしたちに祈ることを教えて下さい」[12] と求めた時、主は「そうだな、ただ口を開いて何でも言いたいことを言えばいい」とか、「ただ神を賛美し、必要なものを求めなさい」 などとは言われませんでした。ご自分が教えられた通りに彼らも祈ることのできる祈りを、一語一句具体的に教えられたのです。「主の祈り」を! その祈りは、その後何世紀も経った今でも祈り続けられています! ですからそれは、既に書き留められ、用意された祈りを、主がどう思っておられるかを示す、格好の例であると思うのです!—マリア・フォンテーン
2019年2月にアンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:ジョン・リッスン