祈りが持つ様々な側面
Prayer Dimensions
September 27, 2013
ヨハン・クリストフ・アルノルト
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人々はかつてないほど孤独です。実際に他の人たちと切り離されているのではないとしても、感情的にもっと孤立しているのは確かです。私たちの時代における最大の呪の一つ、それは、人々が孤独でつながりが断たれていること、鬱がはびこり、機能不全の結婚が増え、多くの人が目的もなく人生を生きていると感じていることです。なぜ私たちはこの地上にいるのでしょう? この質問への答えは、お互いを見いだし、そして何よりも神を見いだす時にのみ、発見されると私は信じています。
私たちはそれぞれ、神を見いださなければなりません。それは、神との「縦の」関係は常に人間関係という「横の」関係に大いに影響を与える要素だからです。しかし、神を見いだすとはどういうことなのでしょう?
時として、「祈り」という言葉にはあまりにも宗教的な考えがついて回り、あまりにも多くの人に扱われたことで、くたびれきっているように思われます。それは人々にとって、果たすべき義務となり、次にそれが重荷となって、人はそれに対し反抗するようになってしまいました。私自身は祈りを義務としてではなく、神の御前に行って心配事や必要、嬉しかったこと、感謝していることを告げる機会としてとらえています。この意味で、祈りは単に神との会話なのであり、それは誰にでもできることなのです。
祈りは、決まった場所と時間で、書かれた聖句や祈りの本を使う儀式ともなり得ます。さらには祈る時の体の姿勢さえ決まっていることもあるでしょう。あるいは、形式など何もなく、ただ心のあり方だけ、という場合もあるでしょう。
たいていの人にとっては、まず、静かな場所で一人きりになるというのが、神を見いだし、神と交信する時のもっとも自然な始め方でしょう。そのどちらにも、気を散らす外部のものを脇において、頭と心から取るに足らない思い煩いを取り去ることを必要とするからです。ちょうど、神が部屋に入ってきて私たちと語らってくださるかのようであり、まず、やっていることから目を上に上げて神を認めてからでないと、会話は始まりません。また、神の御前に静まるという行為が祈りのための備えであるばかりか、それ自体が祈りであるという人もいます。そのような会話は、夫婦や、互いに良く知っている二人の人が交わす言葉のない会話のようであり、言葉がなくとも意思疎通をはかることができるのです。
当然、真の会話には声と沈黙、ギブ&テイク、話すことと聞くことの両方があります。それでも、神が自分中心のおしゃべりを望まれないことは明らかです。神は私たちが求める前にさえ、私たちに何が必要かをご存知です。さて、私たちが内面的に静かにならない限り、どうやって自分の声以外の何かを聞けるようになるのでしょう? また、神は長たらしい嘆願も求めておられません。私たちの心が真に神の方を向いているなら、ちらっと上を見るだけで、また、心からのため息をつくだけで、一瞬の沈黙、あるいは喜ばしい歌、涙の嘆願、苦悩に満ちたすすり泣きがあるだけで、同じだけの効果があるでしょう。その一つ一つが、慎重に選んだ数多くの言葉と同じくらいの祈りと言うことができるし、事実、それ以上のものともなりうるのです。
祈るには多くの方法があります。私が知っている一人の女性は、祈っている時に、「頭を上に伸ばして口を大きく開け、お父さんが口の中に落としてくれる物を何でももらいたくてしょうがない、ひな鳥」として自分を思い浮かべるのだと教えてくれました。「何も疑問を抱かず、疑わず、心配せず、ただ受け取り、心から感謝するのです」と。
ヴェムカテチュワラム・サイアハラジュという、インドから来た友人はこう言っています。
私は声を出さずに祈ります。私はヒンズー教のバラモンの家に生まれ育ちましたが、それでも、抽象的な存在に祈るのではなく、聖書にあるような宇宙と人間を造られた創造主、父なる神に祈ります。神はご自身の被造物から遠く離れてはいません。キリストが神を人間の近くの存在としてくださったからです。私はキリストに祈ります。‥‥私は、一人きりになれる場所で祈ることがよくあります。そのような時、私は、神の見えない感触を経験し、それが私の体と魂に力を授けてくれるのです。確かに、朝早く夜明け前にベッドから出るのは、いつだって大変です。けれども、朝早く神の御前に座って、瞑想し、祈るのが私の習慣なのです。そうしている時、私の心は平安と説明できない喜びに満たされます。
ヴェムカテチュワラムは、本物の祈りの大切な一面に触れています。それは会話であり、漠然とした状態ではなく、たとえ言葉はなくとも二人以上の人たちの間で交わされるもの、行われることなのです。
初期の教父であるテルトゥリアヌスによると、祈りは神に対して喜怒哀楽や感情を向ける以上のことでもあります。それは、神の現実を力として経験することなのです。
祈りは弱い者を変え、病人を回復させ、悪鬼に取り憑かれた人を解放し、獄の扉を開け、無実の者を縛る縄を解く力を持っている。さらに、祈りは過ちを洗い流し、誘惑を追い払う。迫害を止め、落ち込んだ霊を慰め、元気な者を励ます。旅人に付き添い、波を穏やかにし、強盗を愕然とさせる。貧しい者に食物を与え、富める者を治める。倒れた者を起こし、他の人たちが倒れないように支え、立っている者たちを強める。
テルトゥリアヌスはまた、祈りを「信仰の砦」、「仇に対する盾と武器」とも呼んでいます。また、パウロはエペソ人への手紙で、同胞のクリスチャンたちに「神の武具」で身を固めなさいと言っています。それによって、試練の時に創造主ご自身の助けを得るのだと。[1]
これらの比喩が正しく、たとえ神の力が私たちを保護し、守り、慰めることができたとしても、私たちはその力の前で恐れおののくこともあるのを覚えておくのは良いことです。特に、私たちが失敗したり何か間違ったことをした後には、祈りによって神の御前に行き、自分たちの弱さを神に携えるという行為は、私たち自身を神の明るい光の下に置いて、自分の悲惨な真の状態を見ることを意味します。
私たちの神は燃やし尽くす火であり、神が私を捕らえる時、私の汚れはパチパチと音を立てます。神はすべてが光であり、私の闇は神の炎の下でしぼんでいくのです。祈りをそれほども恐ろしいものにするのは、この、神の赤裸々な炎です。たいていの場合、私たちは自分が十分良く、隣りの人と同じだけ良いか、あるいはもっと良いと思い込むことがあります。それから私たちが祈りに入ると、つまり真の祈り、すべてをさらけだした祈りに入ると、私たちには何も残らず、自分が足場としたものもなくなります。—シスター・ウェンディー・ベケット
シスター・ウェンディーが書いた、全能の神とちっぽけな人間との対比の認識からすると、人は当然、「神は本当に私に答えられるのだろうか、それとも私の祈りはただ、自分のいる状況の不快さに慣れさせるだけなのだろうか」とたずねるかもしれません。実際、祈りとは単に感情に取り組むための場であると思っている懐疑主義者や、「私はただ神の御心がほしいだけであって、神は私が祈らなくともそれをくださることができる」と言う人たちがいます。
私はこの謎かけへの単純な答えを持っていませんが、だからといって、答えがないというのではありません。私が見る限り、これは関係性の問題です。もし私が神を父として主張するなら、私は困っている時も神に話すことができなくてはなりません。そしてその前に、私は神との関係に積極的に関わる必要があります。せめて、どこで神を見つけられるかがわかるぐらいには。
私たちに自由意志を与えられた神は、誰に対してもご自身を強要されません。私たちが神に対し、人生に働きかけて下さいとお願いしてからでないと、神は介入されません。私たちは神の存在を求め、神が供給できる内なる食物を必死に欲さないといけません。ローマの地下墓地で見つかった絵のように、私たちは神に向かって目と腕を上げなければなりません。ただ神を待っているだけではなく、神を見いだし、神が私たちに与えようとしておられるものを何でも受け取るために、上に向かって手を伸ばすべきなのです。
この意味で、祈ることは神と語り合うことをはるかに超えたものです。祈りは私たちに、神と直接触れることで神の御心を見分けるための機会を与えてくれます。それは、私たちに必要なものを何でも、神に求めることを可能にするのであり、それには、さばき、憐れみ、人生を変えるための恵みも含まれます。アンリ・ヌーウェンが書いたように、それは「革命的な事柄」でもあるのです。「なぜなら、いったん始めたなら、全生涯を天秤にかけたことになるからである。」
圧倒的に新約聖書の中枢をなす一つのメッセージとは、行動する愛です。そして、人間的な欠点にもかかわらず愛の福音を広めた信者たちの中に、その手本があります。最初はクリスチャンを迫害していた使徒パウロは、キリスト教界で最も力強い人物の一人となりました。私たちが一番よく祈り求めるものを、彼は祈りの中で滅多に求めませんでした。それは、安全、肉体のいやし、物質的な祝福です。彼はむしろ、人格の強さ、知恵、判断力、愛、犠牲、神と霊的力を個人的に知ること、福音を宣べ伝える勇気、忍耐、救いにもっと関心がありました。そして、現代の多くのクリスチャンとは異なり、彼の祈りは単に自分や自分にとって大切な人たちのために述べた利己的な願い事ではありません。地球全体のために祈っていたのです。
主の祈りについては、今まで何千ページ分ものことが書かれてきました。その祈りが力強いのは、主にその簡潔さと単純さのためであると私は思います。私たちがせっかちになって愛の御霊の気を害する時、私たちはゆるしを求めなければなりません。誘惑に駆られる時、私たちは安全に導かれるようお願いしなければなりません。そして、毎日毎日、必要を供給され、守られなければなりません。そして何よりも、私たちは聖霊に心を満たされ、私たちを根底から変えていただかなければなりません。そのためには、「みこころがなりますように」とお願いするべきであるし、それを心から言うべきなのです。
ヨハン・クリストフ・アルノルトは、結婚や家族、教育、紛争解決というテーマに関する著名な講演者かつ著者です。ブルーダーホーフの主任牧師を勤めると共に、地元の保安官事務所の牧師を勤めています。その著作は20カ国語以上に翻訳されています。© Copyright 2011 by The Plough Publishing House. 許可を得て使用。
2013年9月アンカーに掲載。朗読:ジョン・マーク。
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