「絶えず祈りなさい」
“Pray Without Ceasing”
May 30, 2017
引用文集
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絶えず祈るとは、どういうことなのか
第1テサロニケ5章17節にある「絶えず祈りなさい」というパウロの言葉は、少々分かりづらいものです。明らかに、1日中、頭を垂れ目を閉じていなさいという意味ではありえません。パウロは休みなく祈りを唱えなさいと言っているのではなく、絶えず神を意識して、神に服従した態度を持っていなさいと告げているのです。神がそばにいて、私たちの思いや行動に積極的に関わり、参加していることをすべての瞬間に感じながら生活すべきなのです。
心配や恐れ、落胆、怒りを感じる時、私たちは意識的に素早くすべての思いを祈りに、そして祈りを感謝に変えるべきです。パウロはピリピ人への手紙の中で、心配するのを止めて、「事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」[1] と命じました。コロサイの信者たちには「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り」[2] に専念するよう教えました。またエペソの信者には、祈りを霊的戦闘で使う武器として考えるよう説きました。[3] 生きていく上で祈りは、いかなる心配な状況、不安な思い、さらには神から告げられた乗り気のしない任務に対しても、最初の反応になるべきです。祈りが不足すると、私たちは神の恵みに頼るのではなく自分たち自身に頼るようになります。突き詰めて言うと、絶え間ない祈りは、父なる神への一貫した依存と交わりを意味します。
クリスチャンにとって、祈りは呼吸のようなものであるべきです。あなたは考えて息をしないはずです。空気の圧力で肺が収縮することによって、自然と呼吸しているからです。息を吐くよりも息を止める方が難しいのはそのためです。同様に、私たちが神の家族の元に生まれると、霊的な空気の中に入ります。そこでは神の存在と恵みが私たちの人生に圧力、つまり影響を与えます。祈りは、そのような圧力、プレッシャーに対するごく自然な反応です。信者である私たちは、祈りの息を吸うために、神の空気の中に入ったのです。—gotquestions.org より [4]
キャンドルと祈りのレッスン
正直言って、私にはよくわからない聖句がいくつかあります。その1つが「絶えず祈りなさい」[5] です。よく思い出す節であり、私は祈りの大切さを学びました。よく祈るし、たくさん祈りもしますが、絶えず祈っているとは言えません。だから、十分祈っていないことでよく罪悪感を感じていました。
悪気はないのですが、よく他のことに気を取られてしまうのです。運転する前、食事の前、寝る前、起きた時には、簡単に祈ります。誰かが祈りを求めてきたら祈ります。大抵、私には毎日祈るためのリストがあります。誰かのことを思い出したら、その人のために祈るし、その人の状況のために祈ったりします。けれどもどんなに祈ろうが、どんなに長く見事に祈ろうが、「十分」ではないとわかっています。「絶えず祈りなさい」というレベルに達することはないのです。
最近、娘がヨーロッパに行きました。何回か乗り継ぎしなくてはならないフライトだったので、無事に目的地へ到着するまでずっと祈ってあげたいと思いました。私は「天使のささやき」という小さなキャンドルを見つけ、たとえ私が絶えず祈ることができなくても、娘の天使たちが祈り続けてくれると感じました。というわけで、私はそのキャンドルを安全で目に見える場所に置き、火をともし、娘のフライトのために祈りました。それから、普通に一日を過ごしたのです。キャンドルの横を通るたびに娘のために祈り、キャンドルの香りに気づくたびに、主が祈りに答えられることを感謝しました。娘が無事に到着したという知らせが届くまで、キャンドルは燃え続けました。
きっと私たちの祈りはあのキャンドルのようなものなのでしょう。主への信仰や信頼は、御座へと立ち昇る甘い香りのようです。きっと主は、私があのキャンドルを楽しんだように、祈りの香りを楽しまれるのだと思います。家の中はキャンドルの香りでいっぱいになりました。天の広間も私たちの祈りの香りで満ちているのかもしれないと思うと、天国的な気分になります。
というわけで、私は祈っていない時のことを心配するのを止めました。ただ、自分にできることをして、できるだけ祈り深くあろうとします。絶望的な状態の時は、アロマキャンドルを焚いて、可能な限り主に祈りと思いを伝えます。それから残りのことや私の人生、そして愛する人たちの人生について、すべて主に信頼し、思い煩いを委ねます。主が私の世話をしてくださると知っているからです。それから、私は正しい文脈において、「絶えず祈りなさい」という聖句を実践します。常に喜んでいようとし、絶えず祈り、すべての状況に感謝します。それが主の御心だと知っているからです。—ジョイス・サッティン
神と常に交わる
あなたは一日を通して、主と絶えず終わることのない会話を続けることができます。何であれ、あなたがその時にしていることや考えていることについてです。「絶えず祈る」[6] とは、ショッピングや運転、仕事、その他何であれ日常的なことをしている時に神と会話するということです。
「神と時間を過ごす」ためには、神と二人きりにならなくてはならないと考えるのはよくある誤解です。もちろんイエスが手本を示されたように、神と二人だけの時間も取るべきですが、それは生活のほんのわずかな部分です。あなたのすべての行動において「神と時間を過ごす」ことができます。あなたが神にも関わっていただき、神の存在を意識し続けるなら。
常に神と会話を保つ方法を学ぶ有名な本に『Practicing the Presence of God(神の臨在の実践)』があります。この本は17世紀にフランスの修道院にいた謙虚な料理人、ブラザー・ローレンスによって書かれました。ブラザー・ローレンスは、食事の準備や皿洗いといった、最もありふれた単純作業をも、神への賛美や会話とすることができました。
ブラザー・ローレンスは、神とつながる鍵とは自分のしていることを変えるのではなく、それに対する自分の態度を変えることだと言いました。食べたり、風呂に入ったり、働いたり、リラックスしたり、ごみを捨てたりなど何でも自分のためにしていることを、神のためにし始めるのです。
私たちは、神を礼拝するために毎日の仕事から「離れなくてはならない」とよく考えます。けれども、それは神の臨在を常に感じることを習得していないからなのです。ブラザー・ローレンスは毎日のありふれた仕事を通して神を礼拝するのは簡単であることを見出しました。特別な修養会に行かなくてもいいのです。
これこそ神の理想です。エデンの園で礼拝は参加すべきイベントではなく、絶え間ない態度でした。アダムとエバは常に神と交わっていたのです。神はあなたと共におられるので、あなたが今いる場所以上に神に近い場所はありません。聖書には、「神は‥‥すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」[7] と書かれています。—リック・ウォレン [8]
2017年5月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ
音楽:ジョン・リッスン