変えられた人生の力
The Power of a Transformed Life
August 12, 2014
引用文集
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だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。—2コリント 5:17
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すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。—ローマ 6:4
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イエスご自身と初期の弟子たちのメッセージは、ただ罪のゆるしについてだけではなく、新しい命(人生)についてでした。もちろんそれには、主が私たちの罪のために死なれたこと、そしてゆるしも関係しています。けれども、その新しい命には、他にも非常に多くの要素がかかわっているのです。コロサイ1:13にあるように、「救われる」ことは、「闇の力から救い出され、その愛する御子の支配下に移されること」を意味します。救いを受けた私たちは、救われていない人々とは異なる秩序のもとで、異なる「世界」に生きるべきなのです。‥‥キリストへの信仰と望みゆえに、古いやり方を手放すことは、与えられた新たな命が最初に示す自然な反応の中でも、特に際立っています。その命はキリストの命と同じ資質を宿すようになるでしょう。それは紛れもなく、キリストの命だからです。主は確かに、私たちの内に生きておられます。今も私たちの内に「受肉」しておられるのです。—ダラス・ウィルワード
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あなたが私たちの内に生きて下さるよう祈ります。生きているのはもはや私たちではなく、私たちの内におられるキリストとなり[1]、私たちの内に、また私たちを通して、ご自分を表してくださいますように。主よ、私たちを聖別して下さい。ああ、あなたの霊が下って、私たちが神に従うことができるよう、あらゆる能力をあふれんばかりに満たし、あらゆる情熱を制覇し、私たちに生来備わったあらゆる力を、用いられますように! 御霊よ、来て下さい。あなたはこれまで何度も、私たちを覆われました。来て下さい、そして私たちを、より完全にあなたのものとして下さい。‥‥この心を、頭を、手を、足をお取り下さい。そして、この全身をあなたのためにお使い下さい。私たちの持てるものをお取り下さい。私たちがそれを貯め込んだり、自分のために使うことをお許しになりませんように。私たちの才能をお取り下さい。賢者と呼ばれるために学を積もうとするのではなく、得た知識をことごとく、あなたにより良く仕えるために用いることができますように。—C・H・スポルジョン
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御子イエスが私たちの心に入られた時に、神の御霊の力によって生じる、即座の奇跡的で超自然的な心と思いと人生の変化は、あまりにも劇的なものであるために、神の言葉はそれを霊の内で再び生まれることにたとえています。その後神の新生児は、神の驚くべき霊の王国において、真新しい人生という真新しい世界に、初めて突入するのです。
そのような「生まれ変わり」や「変化」を経験することは、神の奇跡の中でも、歴史を通じてごくありふれたことでした。イエスはそれを、御霊によって「新しく生まれる」と表現され、パウロはそれを新たな誕生、すなわち「古いものが過ぎ去り、すべてが新しくなる」ことと呼び、「あなたはキリスト・イエスによって新しく造られたものである」と言いました。また聖書は他にも、「古い人を脱ぎ去り、新しい人を着る」と表現しており、それには多くの場合、非常に驚くべき変貌と、実際の人格の変化が伴うため、神の言葉はそれを、古いものが死んで葬られ、新たによみがえって、まったく新しい命と生き方となることにたとえています。[2]
主を人生に迎え入れることで、あなたの霊が新たにされ、清められ、再生されるばかりか、思いも新たになります。それはまさに古いしがらみや反応を断ち切って、それを徐々に再構築・再配線して、まったく新しい人生観や世界観や、周りのほぼすべての物事に対する新たな反応をもつ、まったく新しいコンピュータシステムとなるようなものです。
あなたの全人生や、性質、思い、心、それらすべてが変わります。普通、あなたの物の見方や願望、また人生の目標は、以前とはまるで違うものになります。中には、芝生が実際にもっと緑に、空がもっと青く見え、木々はより美しく、太陽の光がもっと金色に輝いて、以前の生活に比べると、まったく新しい地上の天国に入ったように感じる人もいるという話を、よく耳にしました。それほども素晴らしいのです!—デービッド・ブラント・バーグ
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呼吸の一つ一つが、あなたのためでありますように。毎分があなたのために費やされますように。命の続く限り、本当の意味で生きることができますように。そして勤勉な者となるよう求められているがゆえに、私たちがこの世で忙しく労する間にも、あなたの奉仕のために、この世を聖別できますように。私たちが社会において一塊の塩となり、この霊や性質や言葉が、天国を思わせるものとなりますように。私たちが去った後に、この世が以前よりも良くなるような、そんな影響力を携えることができますように。主よ、こらの願いを聞き届けて下さい。—C・H・スポルジョン
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それでは、神が人類全体にもたらされた違いとは、一体何なのでしょう? それはただ、こういうことなのです。神の子どもとなること、造り出されたものから生み出されたものとなること、一時的な生命体としての命から永遠の「霊の」命へと移行することといった、これらの作業が、私たちに代わってなされました。人類は原理上、すでに「救われて」いるのです。そして私たち一人一人が、その救いをわがものとしなければなりません。しかし、そのひどく骨の折れる仕事、私たち自身にはとても成し遂げることができないような仕事が、すでに私たちに代わって成し遂げられたのです。私たちは、自力で霊的な人生への梯子をよじ登る必要はありません。それはすでに、天から人類に与えられたのですから。そのような霊の命を、ご自分の中に十分に宿しておられた方、神であられながら、同時に実際の人でもあられる方に、自分をことごとくさらけ出すなら、その方は私たちの中で、私たちに代わってそれをして下さるでしょう。
クリスチャンが、「キリストの命が私の内に宿っている」と言う時、それは単に心理的・精神的な意味で言っているのではありません。自分が「キリストの内にいる」とか、キリストが「自分の中におられる」と語る時、それはキリストのことを考えているとか、真似ていると言っているのではなく、実際にキリストが自分の中で動いておられるという意味なのです。クリスチャン全員は、キリストがそれを通して御わざをなされる身体器官であり、私たちは主の体の指であり、筋肉であり、また細胞なのです。—C・S・ルイス
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イエスと初期の弟子たちは、今日説かれている救いとは、根本的に異なる救いを説きました。彼らは現世と来世の両方において、全人類を取り囲んでいる、神の御国での命について語ったのです。彼らのメッセージは、360度の視点から、あらゆる側面を網羅していました。‥‥イエス・キリストにあっての救いは、人生に新たな秩序をもたらします。救いは命であり、私たちがこの命すなわちゾーエ―(zoe)[3] を持つ時、肉体の死とは、この人生からより素晴らしい人生へのちょっとした移行過程にすぎなくなります。私たちはキリストにあって、神の壮大な宇宙において永遠に過ごす運命にある、不朽の霊の存在となるので、ここ地上での生活よりもさらに素晴らしい天国での生活を待ち望むことができます。しかし、その焦点はなお、キリスト・イエスにあって現在持っている、新たな秩序に当てられているべきなのです。
真の問題は、私たちが天国に入ることではなく、天国を私たちの内に入れることです。‥‥クリスチャン生活の大胆な目標とは、内なる人格を、さらに深みのあるものへと、絶えず再形成することなのです。それがますます神の恵みと栄光を映し出し、常にイエスの人生や、その信仰や願いとの、より輝かしい一致を遂げるように。—リチャード・J・フォスター [4]
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この人生とは神聖でいることではなく、神に似たものとなる過程です。健康ではなく、健康を回復すること、ある状態でいることではなく、ある状態に変貌することなのです。私たちは今、なるべき者になっていないけれど、そうなりつつあります。その過程はまだ終わっておらず、着々と進行中です。これは目標というのではなく、歩むべき正しい道なのです。今のところは、あらゆるものが光り輝いているわけではないけれど、それでもすべてが清められている過程にあります。—マルチン・ルター
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仏教やイスラム教や儒教などの、主要な宗教運動の創始者は皆、何世紀も前に死にました。後に残されたものといえば、彼らが著した本ということになりますが、イエスと福音書はそうではありません。福音書は神の介入についての、未だ進行中の作品であり、人を神の命と神ご自身との和解に至らせたその介入は、御子イエス・キリストの生と死と復活によってのみ、成し遂げられました。福音に生命力と力と実体を与えているもの、それは死からよみがえられた生けるキリストです。主は単に、信頼し従うべき教師ではなく、私たちの命を変貌させ、神の御心に沿った生き方ができるよう、その内に宿る御霊によって、私たちに力を賜る命そのものなのです。—チャールズ・プライス
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神は宇宙を動かす力と生命であられ、聖書が愛と呼んでいる存在そのものです。「神は愛である。」[5] つまり、愛の霊そのものなのです。それは決して離れることのない恋人の中の恋人であられる神ご自身からの、決して朽ちることのない真の愛、永遠の愛、本物の愛、純粋な愛です。
神はその御子キリスト・イエスの内に表われています。イエスは、最も貧しい人や極悪人、また独善的で偽善的な宗教上の敵たちさえも含む、すべての人を愛されました。主はその生涯を通じて、様々な場所に出て行って、善を行い、人々を助けられました。酔っぱらいや娼婦や、取税人や罪人たち、そして時には、その危険な愛の教義ゆえに、最後にご自分を十字架にかけたサドカイ人やパリサイ人たちでさえも。しかし、その死はそれと引き替えに、主を愛する人々に、命とゆるしと、永遠の喜びをもたらしました。
イエスは恋人の中の恋人であられ、愛のために来て、愛の内に生き、愛のために死なれました。私たちが永遠に生き、愛することができるようにと! 主は魅力に欠けた人や、到底愛することのできないような人をも愛されました。そしてその愛によって触れられた人々は、美しく花開いたのです。けれども、主にはあなたの手以外に手はなく、あなたの唇以外に唇はなく、あなたの目以外に目を持っておられません。あなたこそが主の体であり、花嫁であり、主はあなたが生き、ご自分と同じように他の人を愛し、ご自分がされたように彼らのために命を捧げ、ご自分と同じように、彼らのために死ぬようにと、あなたのために死んで下さったのです!—デービッド・ブラント・バーグ
2014年8月にアンカーに掲載。朗読:サイモン・ピーターソン。
音楽:マイケル・ドーリー。