完璧な世界
A Perfect World
February 25, 2015
エレーナ・シクロフスキー
「神が私のことをそんなに愛しているなら、どうしてチャーリーを奪ったの?」 14歳のロザンナの言葉の裏に痛みが感じられました。彼女は幼い頃、姉が誘拐の上、殺されています。そして、ほんの数か月前には、兄が電車にひかれてなくなったのです。ものすごい喪失感と悲しみが重くのしかかって、感情的にも精神的にもずたずたの状態でした。「神はすべてをコントロールできるし、何でも望むことを起こせる。神は神であって、全能なのだから、何でも望むことができるはず。なのに、全然止めてくれなかったじゃない!」
そこで私はこう説明しました。神は確かに全能だけど、悪いことが起こるのを止めることはできない、なぜなら、正しいことをするよう人間に強いるなら、選択の自由を奪うことになってしまうからと。神は悪を創り出す方ではないけれども、自由意思を持った存在として私たちを創造する上で、愛するか憎むか、善か悪かを選ぶ機会を与えてくださったのです。
とはいえ、殺人や飢餓、戦争による破壊のニュースがトップを飾るこの世界に嫌気がさして、私たちは、怒りや残忍さというものが全く存在しなかったなら、また、互いを傷つけたり、ひどい扱いをしたりということができなかったなら、どんな世界になるだろうかと考えるものです。日々の悲しみや悩みと格闘しながら、頭の片隅には完璧な世界を夢見る思いが絶えず浮かぶのです。
2014年の映画『ザ・ギヴァー(原題)』では、欠点のない世界がわかりやすく描かれています。この映画は、1993年に発表されたロイス・ローリーによる児童文学[邦題『ギヴァー 記憶を注ぐ者』]を原案としています。その色のない世界での秩序と調和とを表現するには「静穏」という言葉がぴったりでしょう。緻密に計画された家族ユニットや、変化のない安定した気候からなるこの白黒の世界では、混乱や争いを避けるために、虹の色合いさえもが排除されています。
ギヴァー〈記憶を注ぐ者〉(ジェフ・ブリッジス)がジョナス(ブレントン・スウェイツ)に告げます。今はもう雪は降らない、なぜなら、雪が降ると天候が変化し、天候が変化すると農作物が被害を受け、農作物が不足するとお腹をすかし、それが飢餓につながるからと。飢餓は、現在のユートピアのような平和と平等の新時代においては未知の現象なのです。病気も排除されて健康と強さだけが残り、老年者や病弱な乳児は「よそ」への解放として知られる方法によって穏やかに排除されます。そのために無痛の注射をする人はあまりにも無表情なので、死を意識しているようには見えないほどです。
ギヴァーはただ一人、過去の記憶や情報を保持しています。なだらかな丘が緑、青、赤で彩られ、海には波が逆巻き、人々は笑い、踊り、歌い、さらには互いに戦い、叫び、殺し、傷つけた時代のことを。ジョナスは次のレシーヴァー(記憶の器)に任命され、ギヴァーからあらゆるデータを受け継ぎますが、これは助言や緊急時のために何世代にもわたって記憶を保持していくためです。
ギヴァーは、過去の世界の記憶を伝達し始めます。鮮やかな色、脈打つリズム、激しい波、穏やかに起伏した丘、チリンチリンとなる音、揺れる感情、どれもジョナスにとっては、全く異質で未知のものばかりです。ジョナスは徐々に、全く新しいもの、つまり、単なるフィーリングよりも深い感情を味わい始めます。「人に対する感情は、頭では説明できない。なくすこともできない。愛だ。それは愛と呼ばれるんだ」とギヴァーは説明します。
ジョナスは、自分たちが何を奪われていたかを知って、確立された規則に疑問を抱き、こう言います。「感じられないなら、意味ないじゃないですか。」 ギヴァーはこう説明します。「同一化が行われたんだ。みんながそれぞれ異なっていたら、妬みや怒りを抱き、憎しみにさいなまれるかもしれないから。」 それからジョナスは、人が自由に行動するなら何が起こるのか、つまり戦争や殺人、死、苦痛がもたらされるということを知らされます。それに驚き、恐れをなしながらも、ジョナスは「すべてはつながっている。すべてはバランスだ。善のあるところには、悪もある」と言うギヴァーの言葉を何とか理解しようとします。
ジョナスが記憶の境界を越えて、「無菌化された」コミュニティに色彩や感情や自由を取り戻させようとする機会があるのですが、人間性の美しい面と共に、醜く人を傷つけ邪悪な面も出てきます。
人が自分で選択できたなら、どうなるのでしょうか。あなたにより声高に語りかけるのは、どちらの声でしょうか。「人が選択の自由など持ったら、いつも間違ったほうを選んでしまう」と繰り返す主席長老の声でしょうか。あるいは、「愛という可能性をもって見ることができれば、いいんだ。愛があれば希望が生まれる。愛があれば信念が生まれる」と言うギヴァーの声でしょうか。
自分自身の世界を創ることができたとしたらどうなるでしょうか。あなたが神であって、より良い環境を創ることができるとしたら、どうでしょうか。リー・ストロベルの著書『それでも神は実在するのか?』(いのちのことば社)で、ピーター・クリーフトはこんな難しさを語っています。「ユートピアを作ってみてください。でもこの世界をより良い場所に変えようと努力する中で、あなたは自らの言動が引き起こす、すべての結果に責任を取らなければいけないことを、よく覚えていてくださいね。悪を防ごうとしたら、そのたびに人間の自由を奪わなければならないのです。すべての悪を防ぐには、すべての自由を奪い、人間を操り人形同然に貶(おとし)めなければなりません。そして人間は、自由に、自らの意志で愛を選び取っていく能力を全く失うのです。」
完璧を強要しようとすれば、結局は人間性の喪失に終わり、神が私たちに与えてくださったあふれんばかりの豊かな人生も面影しか残らなくなることでしょう。人生はバラエティーに富み、性格やスタイルの違い、多種多様な感情、様々な風景、他にも色々なものであふれているというのに。確かに、悪や残酷さや痛みが生じる可能性もあるわけですが、神は私たちが無力なままにはされませんでした。自分の間違った決断や、他の人たちの間違った決断のゆえに苦しむままにされたりはしないのです。
すべてを包みこむ愛をもって、神は私たちに、御子イエスという形で希望を送られました。ヨハネ10章10節には、イエスのとても大切な言葉があります。「わたしがきたのは、[人々]に命を得させ、豊かに得させるためである。」 キリストの死は、罪が私たちに対して持っていた力を砕き、永遠の命という爽やかで新鮮な空気をもたらしてくれました。自分の人生にイエスを受け入れることを選択すれば、人生の困難を乗り切るたびに、性格に深みが加わり、より強くなることができます。人間性によって逆のほうに引っ張られても、愛と忍耐という正しい道を選ぶことができます。より大いなる確信をもって目を開き、この世界が私たちのために持っている美しい可能性を見ることができるのです。もしも、私たちがそのことを他の人にも知らせるつもりでいるならば。
何よりも、私はロザンナに、いつも私たちのかたわらには友であり救い主である方がいてくださると話しました。ピーター・クリーフトの言葉の通りです。「苦悩に対する回答は、(回答を得ることではなく)回答者(イエス)本人です。」 だんだんロザンナも理解してくれました。ポール・クローデルが言ったように、「キリストがやって来られたのは、苦しみをなくすためではなく、苦しみをキリストの存在で満たすため」だということを。
イエスが、このエキサイティングながらも、困難に満ちた旅路を一歩一歩私たちと共に歩いて下さるので、私たちは聖書でイエスが約束された豊かな命・人生を楽しむことができます。私たちには、今日それを選び、真の自由をもって生きる機会が与えられているのです。