死から命に移っていく
Passing from Death to Life
May 22, 2023
宝
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世界でも名高い新聞編集者であり、著述家でもあるアーサー・ブリスベーンは、かつて、こんな光景を文章にしたことがあります。それは、毛虫の群れが嘆きながら、抜け殻となったさなぎを墓地に運んでいくところで、友を失ったかわいそうな喪服姿の毛虫たちは悲しみの涙を流していました。しかし、その上では美しい蝶が幸せそうにヒラヒラと飛んで行ったのです。あの地上の殻から永遠に解放されて。説明するまでもありませんが、ブリスベーンは普通の葬式の様子を風刺していたのです。愛する人を失った時、そのさなぎの殻、つまり地上に残されたものだけを思い、美しい蝶のことを忘れてしまうということがいかに近視眼的な物の見方かを、この描写を通して言おうとしていたのです。
神への信仰を持つことの素晴らしい点が、ここにあります。つまり、愛する者が主の元に行く時、絶望の涙に浸り、耐えられないような深い悲しみに沈む必要はないのです。第1テサロニケで使徒パウロはこう書いています。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(1テサロニケ4:13)
もちろん、愛する人と別れるというのは、悲しい出来事です。しかし、あなたもその人もイエスを愛しているなら、あなたは再びその人と会うことができるとわかっています。別れは辛いでしょうが、その人のことを思うなら、喜んであげることができます。地上の身体が持つすべての試練や悩みから解放され、より良い人生と、永遠の故郷がある場所に移ったのですから。
地上にいる間、私たちはこのいずれ死ぬべき体という重荷を抱えていますが、この人生を去る時、この重荷はなくなります。それは、ちょうど宇宙飛行士が無重力状態に入る時に感じるようなものです。もう肉体や人生の様々な問題に悩まされることもなくなります。この地上での一時的な人生という学年を卒業し、永遠に続く天の世界へと進んでいくのです。(2コリント4:18)
たいていの人は死から目をそらしています。死について考えるのを好まないのです。遅かれ早かれ、死は誰にでも訪れるのですが、ほとんどの人は死を無視し、死後の生活に備えようとはしません。もちろん、若い時には、死のことをあまり心配しないし、死はずっと先のことに思えるものです。しかし、病気や事故、あるいは高齢になったことで、突然、死に直面した時に、もしあなたが主を知らず、あなたを救うための主の計画も知らないなら、死ぬのはひどく恐ろしい経験にもなりえます。まったく知らない世界に入り込んでいくのですから。
聖書には「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たち」のことが記されています。(へブル2:14-15) 人が死を恐れるのは、ほとんどの場合、死ぬ準備ができておらず、未知のものを恐れるからです。しかし、イエスをあなたの導き手とするなら、死のことを心配したり、怖がったりする理由はありません。クリスチャンであるあなたは、自分がどこへ行くのか、疑いの余地なく知っているのですから。あなたは天国に帰郷して、いつまでも主と共にいることになります。そして、恐れるものは何もないのです。(1テサロニケ4:17)
生まれ変わった神の子どもにとって、死は損失ではありません。「死ぬことは益」なのです。(ピリピ1:21) 「肉体から離れ」ることは、「主と共に住む」ことです。(2コリント5:8) 悩み苦しみはもうなくなります。この肉体のゆえに、一瞬、いくらかの痛みはあることでしょう。しかし、その後、自由になるのです。永遠の喜びと平和がある新しい人生への素晴らしい解放です。
この地上の体は疲れもするし、ケガをしたり、病気になったりもします。そして、心も疲れ切ることがあります。しかし、死んだ瞬間に、私たちはこの地上での人生における制限から解放され、主の永遠の臨在に入るのです。これが理由で、使徒パウロは死と直面した時、勇敢にもこう言い放ちました。「死よ、お前のとげはどこにあるのか。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」(1コリント15:55) イエスがそのとげを取ってくださったのです。私たちは死を経験しますが、とげはありません。死にはしますが、私たちが勝利するのです。「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」(1コリント15:57) 主に感謝すべきことに、クリスチャンにとって死は帰郷であり、解放であり、救出です。主に忠実であった者全員に約束された命の冠を受ける日なのです。(黙示録2:10; ヤコブ1:12)
この人生の終わりは、私たちにとって始まりにすぎません。死別していた愛する人たちと再会し、神や神を愛する人たちと共に、永遠の愛と喜びに包まれて、いつまでも幸せに暮らすことができるのです。
主が語られるこの言葉は、なんと美しく、慰めになることでしょうか。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、わたしを信じる者はいつまでも死なない。… [わたしは]あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、… またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ11:25-26; 14:2-3)
あの美しい賛美歌にもあるように:
夜が明ける時、私は別れを告げる
地上の悲しみと、今日のすべての悩みに
神の明日には痛みも死もない
夜が明ける時、影は去っていく
その時、この人生の悩みは小さく見え
私たちの重荷も軽くなる
深い悲しみも、過ぎ去った夢のごとく
あの祝福された朝に、忘れ去られることだろう
神の御言葉によれば、死後の世界で私たちは超自然的な体、つまり主がよみがえられた時のような体を持ちます。「彼は、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。」(ピリピ3:21; 1ヨハネ3:2)
私たちのこの滅びつつある、地上の肉体は土に帰ります。この古くくたびれた地上の体を、完全に新しい天国の体と交換するのです。使徒パウロは、これを素晴らしい「奥義」と呼んでいます。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。」(1コリント15:51-53)
死罪からの赦免
神は、多くの人が思っているような残酷な暴君や怪物、恐れによってすべての人を地獄に追いやるような方ではなく、憐み深い神であり、すべての人を愛して、天国に招き入れようとしています。「神は愛」だからです。(1ヨハネ4:8) 主は、ご自身が愛を込めて造られたすべての人を助け救いたいと願っておられます。事実、主があなたを創造されたのは、あなたが神を愛し、神を永遠に楽しむようになるためなのです。
しかし、悲しいことに、私たちは人に対して利己的だったり、愛に欠けていたり、親切でなかったりしたことがありました。神に対してさえもです。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」います。(ローマ3:23) 私たちは天国に行ったり、神のそばにいたりするのに値しません。けれども、聖書にはこう書かれています。「罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物はわたしたちの主、イエス・キリストにおける永遠の命である」(ローマ6:23)
救いという神の無償の贈り物を受け取ることは、ちょうど罪の責任から赦免されるようなものです。神はこの世のすべての人を深く愛しておられるがためにイエスを送られ、その罪のゆえに受けるはずだった罰をイエスが代わりに受けてくださったのです。(ヨハネ3:16) 私たちがイエスと罪のゆるしと永遠の命を受けるなら、霊的な死という意味ではもう死ぬことはありません。また、死んだ時に自分が神から離れてしまうと感じて苦しむこともありません。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネ5:24)
あなたがまだ心にイエスを受け入れていないのなら、この祈りを祈って受け入れことができます。「主イエスさま、あなたが神の御子で、私のために死んでくださったことを信じます。どうか私の過ちをすべて許してください。イエスさま、どうか私の心の中に入ってきてください。そして、あなたの永遠の命という贈り物をください。私を聖霊で満たしてください。あなたを愛し、あなたのことやあなたの愛と真理を話すことによって、他の人を愛することができるように助けてください。イエスさまのお名前によって祈ります。」
イエスをあなたの心に受け入れたなら、あなたは人生だけでなく死に関しても、最も大切な備えをしたことになります。そして、死ぬ時が来たら、あなたは地上の任務を終えて卒業し、栄光ある命の冠を受けて、主と愛する人と永遠に暮らす来世に向かいます。イエスを知っている私たちは、神の御国で目を覚ますのです。そこには死や苦しみや嘆きや悲しみはなく、神の御前で永遠に平和と喜びと愛に満たされています。
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2023年5月改訂・再版 朗読:ジョン・マーク