自己満足を克服する
Overcoming Complacency
March 20, 2018
引用文集
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どんな信者も、霊的な自己満足と無縁ではいられません。…天国でキリストと一緒になるまで、霊的な自己満足との戦いは、決して終わらないでしょう。霊的な倦怠感を完全に消し去ることはできなくとも、私たちクリスチャンは、有り難いことに、それをかなり減らすことはできます。今週、成長を遂げて、この自己満足という獄屋から抜け出すことを、ある友人が、思い起こさせてくれました。皮肉なことに、クリスチャン的環境にあると、信仰を保つことにうみ疲れてしまいがちです。私の生活を例にとると、毎日聖書を読まねばという自分の確信に、首尾一貫して従うのではなく、しばしばそれを「クリスチャン文化」で代用してしまうのです。もちろん、「クリスチャン文化」が間違っているというのではありませんが、キリストとの真摯な歩みを、その代替とはならない「イエス」文化と置き換えたところで、主との歩みにおいて成長する助けにはなりません。…
もちろん、聖書が霊的な自己満足を克服する唯一の手段というわけではありません。…祈りは、厳しい状況を切り抜けさせてくれる、強力な手段です。逆境を克服できるよう、あなたを強めることにおいて、宇宙の創造主であられる主以上に有能な方がおられるでしょうか? 万物を創造し、全人類の救い主としてよみがえられた、全能の神以上に? 神はプロ中のプロであられ、あらゆるカウンセラーや仲保者やいやし手の中でも、最高のお方なのです。
…浮き沈みは誰にもありますが、罪と死を征服し、あらゆる面で支えて下さる王であられる神を持っているなら、はるかに良い人生を送ることができます。ある有名な説教師も言ったように、「誰もが火の燃えさかる炉に直面する」わけですが、私たち信者には、主なる全能の神がおられるのです。—スカイラー・ヒルマン [1]
活発に御国を促進する
人々が経済状況のために何もしないのは、ただ「船が来る」(金が入るようになる)のを待っているからです。私たちはそれと同じような態度で、宣教や執筆業や、大学への復学や、就職や、何であれ神が自分に求めておられることに、乗り出さずにいることはできません。「いつかやるさ」という態度ではいけないのです。祈って、それを実現に至らせるために、今日自分が何をしているべきなのかを御霊に尋ね、そして、それを実行する必要があります。
自己満足を捨てることは、人の意に反する行為です。たとえやりたくなくても、自らを奮い立たせるのです。それは従順を行動に移すことです。人生から自己満足を取り除きたいと願う時、それは難しいことです。自己満足が、このように言うからです。「何もするんじゃない。」 あなたは自分の内なる思いそのものに抗わねばなりません。…
自己満足していると、わだちにはまってしまいます。車がわだちにはまると、抜け出すのは困難です。車を前後に動かさなければなりません。自己満足も同じです。少し進歩があっても、また後退してしまうのです。わだちにはまって、神があなたのために用意しておられるものを、もらい損ねてはいけません。
聖霊があなたを説得することもありますが、起き上がって主から受けた指示を行動に移すことは、あなたの仕事です。今日行動に出ましょう! 仕事や、神と過ごすデボーションの時間や、結婚生活において行動に出て、御国を促進するために、内なる生産性や野心を解き放つのです。—キャシー・ディグロウ [2]
地の塩
クリスチャンとして私たちは、他の人たちの人生に、そして最終的に社会において、変化をもたらす助けになろうと努めています。つまりそれは、波風を立て、流れに逆らうことを意味するかもしれません。あなたのすることや、大切にすることのすべてが、世の現状に沿うとは限りません。
10年近く前、教皇ヨハネ・パウロ二世が、平凡さと自己満足という誘惑を克服することについて大学生に語ったことが伝えられています。こう語ったそうです。「はりつけにされた王、キリストに従う時に、信者は、統治するとは仕えることであり、また、他の人たちにとっての益を求めることであると学び、愛の真の意味は、自らを心から与えることに表されることを発見する。」 この精神をもって人生を生きる時に、クリスチャンは「地の塩」になると言ったのです。また、こう語っています。「これは楽な道ではない。皆さんと同年配の人たちの考えとは正反対であることが多い。ということは、当然ながら、一般的な行動ややり方に関しては、 時流に逆らうことである。…十字架の神秘は、この世界の精神とは相容れない在り方と行動とを教えるものである。」[3]
私たちはクリスチャンとして、信仰による味付けをもたらし、物事を活気づけるよう召されています。同時に、誰もがその味を好きなわけではないし、慣れ親しんだのとは異なる信条や価値観によって自分のまわりの世界が味付けられるのを好むわけでもないことを認識しなければなりません。信仰に対して異議を唱えられることや反対を受けることなどは、クリスチャンとしての生き方の一部なのです。
「神は地球全体を塩で味付けし、人類を光で照らすために、[初代クリスチャンたちを]世界中に散らされた」[4] という言葉があります。塩を軽く振ることによって食べ物に味付けをするように、クリスチャンも、地上の様々な国に散らされることによって地上に味付けをします。神の教えに沿った生き方をすることで、クリスチャンも、周りの社会の道徳的な腐敗を遅らせ、地上を保存するのです。[5]
イエスは言われました。「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。」 そしてイエスの答えはこうです。「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。」[6]
私たちの内にそうした塩の資質を携え、それによって、周りの世界に主の味付けを与えることは、私たち一人一人に任されています。イエスとの、活き活きとして意味ある、深い関係を持つことや、クリスチャンとしての手本を表し、イエスの教えに従うことがゴールとするものは、昔からずっと、「地の塩」となり、他の人を主に引きつける「世の光…山の上にある町」となることだったのです。それによって、その人たちもまた主を知り、主を愛するようになるし、そして彼らにその気があるなら、他の人たちも同じことをするよう助けることになるのです。[7]
善を促進する力となるというのは、私たち一人一人にかかっています。私たちが神を愛し、神の言葉に忠実であり、神の愛と言葉をいつでもどこでも可能な限り他の人たちと分かち合うかどうかにかかっているのです。私たちがクリスチャンの価値観に忠実であるなら、この世界で人生のスパイスになるという任務を果たし、他の人たちにその味わいと意味をフルに与え、良きものを保存し、世界の真の通貨である信仰を他の人たちと分かち合うことができます。—ピーター・アムステルダム
神は踏み出すよう求めておられる
神は、快適ゾーンから出て一歩を踏み出すよう、あなたに求めておられます。…普通ではないこと…カウンターカルチャー的なこと…ご自分の御国を大いなる国とするようなことをするようにと!
さて、どうか誤解しないで下さい。牧師や宣教師や、超霊的なスターや英雄になれというのではありません! ただ神への熱意と…快適ゾーンから踏み出すことをいとわない気持ちがあれば、それでいいのです。
それは、パーティー会場を横切って、普段は無視している誰かに話しかけるといった、簡単なことかもしれません。あるいは、近所の人をお茶に誘ったり、仕事仲間を昼食に誘って、近況を尋ねる、といったような。
何事においても、快適ゾーンから踏み出すのを恐れてはいけません。…ネヘミヤがしたように…そして、神のために、偉業を成し遂げるのです!
神はご自分に熱心な人々を、探し求めておられます。…人生をさらにレベルアップしたいと望み…凡庸さの迷路から踏み出して、自分自身よりも大いなる何かのために、生きたいと望む人々を!—ジャック・グラハム [8]
2018年3月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー