克服者たち
Overcomers
October 3, 2016
イエスからの言葉
オーディオ・ダウウロード(英語) (9.4MB)
喜びを手にとって味わう
箴言の書には、賢明にもこう書かれている。「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。」 [1] むしろ、次のように言ったダビデ王のようになろうと努めなさい。「われらは常に神によって誇り、とこしえにあなたのみ名に感謝するでしょう。」[2]
明日の計画を立てることはできても、明日が決して来ないかもしれないということを、あなたは知っている。だから一瞬一瞬を精一杯に生きて、自分にあるものを感謝し、楽しみなさい。ここで言う「明日」は単に次の日とは限らず、次の一時間や次の一分についてさえも、同じことが言える。あなたに保証されているのは、今という時間だけだ。必ず将来が来るとは限らない。だから、一瞬一瞬を精一杯に生きようと努めるべきだ。実際のところ、あなたに確実にあるのは、それだけなのだから。
明日や将来について思い煩い、それにとらわれている人々が大勢いる。あなたが将来たどる運命は、すでに保証されている。永遠に続く命や愛や、喜びや安らぎを与えるという約束を受け取ったのであり、それはすでに定められている。あなたは将来への懸念にとらわれる必要はない。将来の計画を立て、それに向けて働きかけるのは構わないが、そのような計画にとらわれる必要はないのだ。
だからあなたは、今の時間を思う存分、精一杯に生きればいい。今楽しまないなら、この時間はもう戻ってこない。人は良い時を思い出すこともできれば、悪い時を悔いることもできる。楽しい時を過ごしたことを、懐かしく思い返すこともできれば、そうしなかったことを嘆くこともできる。しかし、実際に楽しむことができるのは、今のこの瞬間だけだ。だから、この瞬間を大事にしなさい! この日を存分に生きなさい! 喜びを手にとって味わうのだ!
旅を楽しむ
念入りに立てた計画が、うまく行かないことがある。大失敗に終わるか、あるいはそのように見える時が。大抵の場合、あなたには秩序立った計画がある。あれをして、これを成し遂げて、という、壮大なアイデアを持っているのだが、何かの予期せぬ事態が生じると、すべてが流れてしまう。秩序を保とうと懸命に努力するタイプの人にとって、それはひどい混乱状態に思われるかもしれないが、それは幾分「カオス理論」のようで、最初に生じた微小な変化から、思っても見なかった結果が生じ得るのだ。
A地点からB地点へ行こうと考えていたのに、なぜかZ地点に着いてしまったからといって、いら立ってはいけない。旅を楽しみなさい。祈って状況をわたしに委ねたのなら、どのような展開になったとしても、わたしがあなたの人生に引き続き働きかけると期待しなさい。予期せぬ事態が起こって、あなたの秩序立った計画が台無しになってしまったなら、自力で解決しようとするのはやめて、わたしに任せなさい。様々な景色を楽しみ、旅を楽しみ、あなたのために用意した目的地まで、わたしが導くと信頼してほしい。
サッカーのような人生
一日を最高に有意義に過ごす方法とは、「わたしにパスする」ことだ。それはサッカーに非常によく似ている。あなたが目覚めると、目の前にボールがある。そして「ボールを奪おうとして」、相手チームの全員、つまりその日のありとあらゆる責務や問題や要求が、あなたに突進してくるかのようだ。
そのボールを素早く巧みに動かし始めなければ、突進してくる敵チームの誰かに、奪われてしまうだろう。あなたの時間を必要とし、要求するそれらの事柄は、どれも非常にもっともなもので、時間と関心を費やすだけの価値があるのかもしれないが、その日早々に関心や焦点をそちらに奪われてしまうなら、その結果時間がなくなり、焦点が逸れて守勢に回ることにもなりかねない。
あなたはそのボールをわたしに回さなければならない。すべてをわたしに委ねなさい。わたしは常にあなたのすぐそばにいるので、あなたはただ、わたしの方に軽くボールを蹴ってよこすだけでいい。あるいは、わたしがずっと離れたフィールドの反対側にいるようなので、そこまで届くよう、かなり力一杯ボールを蹴らなければならないこともあるだろう。どちらの場合でも、フィールドを駆け抜けようとする前に素早く動き、わたしにボールをパスできるような位置に、自分自身とボールを持って行く必要がある。
あなたやあなたの一日のために用意した計画に沿って、わたしが物事を申し分なくお膳立てすると、心から信じてくれればいい。目をわたしに留めているなら、結果がどうあれ、わたしが試合の主導権を握っていると確信して、安心していられる。その日何が起ころうと、わたしと一緒に取り組むなら、勝利を収めることができると、心から信じてほしい。
陽気術
陽気な心を持つ秘訣とは、人生や自分自身を、深刻に受け止めすぎないことだ! 人生について深刻になりすぎると、些細なことですっかり意気消沈してしまうことがある。そしてそのように感じていることを口に出すなら、周りの人々に悪影響を及ぼしかねない。陽気な心を持っているなら、それは他の人にも伝染する。わたしへの信頼を示し、わたしを賛美し、些細なことを気に病んだりしないなら、そこから平安と落ち着きと信仰の雰囲気が醸し出される。
陽気な心や、幸せで喜びに満ちた霊を持っているなら、人生はずっと楽しいものになり、周りにいる人も、ずっと心地よく感じる。困難な状況下でも、唇に賛美を乗せ、陽気な心を持つことができる。それが表面に現れて、他の人々にもわかるほどにまで自分自身を駆り立てるには、かなりの努力を要するかもしれないが、いったんそうし始め、賛美や陽気な振る舞いを実践するよう習慣づけるなら、それが第二の天性となるだろう。
決して悪すぎるということはない
あなたは人間であり、完璧ではない。失敗を犯すし、そんな時には後悔し、そのことで恥じ入る。もしあなたが完璧だったなら、わたしやゆるしを必要ないと感じていたことだろう。さほど謙遜でもなければ、他の人に同情することもできなかっただろう。成し遂げることができたのは、自分の善良さや徳のおかげだと感じるかもしれない。しかし、人間であって過ちを犯すからこそ、あなたはわたしが必要だと気づいて、愛と謙虚さの内にわたしのところにやって来る。
何があろうと、わたしはあなたを愛している。あなたの仕事は完璧になることではなく、わたしとわたしの言葉に従い、心と思いを尽くしてわたしを愛することだ。完璧になることは、必要な要素ですらない。だから、久しくわたしのところに来ていないか、失敗を犯したとしても、恐れたりおっくうに感じたりすることなく、わたしのもとに来なさい。
あなたは決して、わたしにとって悪くなりすぎることはできず、わたしのもとに来るのに遅すぎるタイミングというのも、決してない。わたしに立ち帰るのに、遅すぎるということは決してないのだ。来て、わたしの言葉を聞き、わたしの愛や助言を求めるのに遅すぎるということは、決してない。わたしはあなたを愛しており、あなたがわたしにささげる一瞬一刻、そして思いや言葉を、喜んで受け入れよう。
2016年10月にアンカーに掲載。朗読:サイモン・ピーターソン。
音楽:マイケル・ドーリー。