心の底からの祈り
An Open-Heart Prayer
July 22, 2013
マリア・フォンテーン
私たちは皆、主との歩みにおいていつか必ず、気力をそぐような個人的な試練を味わうものです。そのような時はつい、自分のいる状況は望みなしだと感じ、勝利を得るためにできることなど何もないように思えるものです。でも、どうか元気を出して下さい。救いはあります。主はいつも、私たちが直面する問題への答をお持ちです。
他の人に証ししたり、人のために時間をかけたりしようという意思がもうなくても、周りの人とうまくやっていくのに苦労していても、孤独を感じていても、毎日の生活に自己中心的態度がますます忍び込んできたとしても、主からのものではない不敬神な欲求や不健全な依存傾向ができてしまっても、ネガティブ思考と戦っていても、他人に大して批判的になっても、落胆しても、主は私たちが直面するすべての問題に対して答えをお持ちです。
そのような時は、主に向かって手を伸ばし、主に献身し、主の祝福を呼び下ろして勝利への道に進ませてくれるような祈りを祈らなければなりません。
私はあらかじめ書かれてある祈りが好きです。何度か、前もって自分の祈りを書いて準備しておいたことがあります。そうすると、自分の言いたいことや、主に誓いたいことを考えたり祈ったりすることができるのです。ここにある書かれた祈りが、どうか皆さんにとっても役立ちますように祈ります。
(祈り):愛するイエスよ、私たちの罪や欠点にも関わらず、あなたは私たちの変わらぬ友、伴侶、恋人、夫であられ、いつも私たちのそばにいて下さいます。あなたは永遠の愛で私たちを愛されます。私たちがどれほどあなたの愛にふさわしくなく感じても、自分がどれほど罪深いと感じても、あなたは決して私たちを捨てたり、私たちに背を向けたりされません。この祈りを祈るにあたり、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただあなたのあわれみによって、あなたがわたしたちを救って下さった、という節を自分のためとして受け止めます。[1]
私の心の願いは、あなたを喜ばせ、あなたに従い、あなたの御言葉に沿った生き方をし、あなたの近くにいて他の人たちへの良い証し(テスティモニー)になることです。私は実り豊かな人生を送りたいです。愛情深くなりたいです。家族にとって祝福となり、弱い人や困っている人を元気づけたいです。
どうか、御言葉のスポットライトを取って、私の魂の奥底まで照らして下さい。そして、どの面で変わるべきかを明確にわからせて下さい。イエスよ、私は本当に、心の底から、変わりたいのです。「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」[2]
自分には、変わったり、あなたが望まれる犠牲を払ったりするだけの力がないのではないかと、少し恐れています。この祈りを祈るということは、私の人生が変わるということであるし、私は実際に変わらなければなりません。そうするには委ねなければならないし、すべてを捨て、何らかの面で新しく造られた者にならなければなりません。
私は委ねようと試みました。ただ、それはある意味で、部分的に委ねただけであることはわかっています。イエスよ、あなたは私が完全に委ねていないことをご存知なのに、この戦いにあって、しっかりつかまっているための恵みと力を与えて下さっています。それを感謝します。また、私にがまんし、こんなに弱い私でも愛してくれるだけの恵みを周りの人たちに与えて下さっていることも感謝します。彼らの祈りを感謝します。
プライドがあがいているのがわかります。将来への恐れや、物事はこうあるべきだという先入観、自分自身に対する見方でさえもが、そして利己心や、自分勝手にやりたいという願い、あなたへの信仰と信頼の不足が、私を押さえつけようとしているのです。それに、ずっとがまんしていればこの祈りを祈らなくても、もしかしたら何かの面で状況が変わって、あなたはもう、私自身やプライドや自分の考えを捨てるというような犠牲を求められないのではないかと望みさえしてしまうのです。
でも主よ、私はこの祈りを祈ることを決意しています。私は変わる必要があるからです。自分自身や、思い煩い、望み、夢、愛する人たち、将来をあなたに委ねます。私をあなたの望む私に変えていただきたいのです。
イエスよ、どうか私の心を変えて下さい。自分の問題や弱さに打ち勝つことは、私にとって不可能な状況のように思えますが、あなたは不可能を可能にする神であると言われました。人にはできない事も、あなたにはできるのであり、また信ずる者には、どんな事でもできるのです。[3] 私は、この変化が可能であると信じる信仰さえをも必要としています。でも、あなたがそれは可能だと言われたのですから、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられることを、私は知っています。[4]
あなたがどうやってそれをされるのか、私にはわかりませんが、主よ、どうかそうして下さいませんか? 本当に、本当にそれを望んでいるのです。いえ、ある意味では望んでいません。私にとって代価が高いとわかっているからです。私は変わり、謙虚になることが必要になるでしょう。でも一方で、あなたがそれを望んでおられると知っているので、私も本当にそれを望んでいます。それがあなたを喜ばせるとわかっています。そこにあなたの祝福があるとわかっているのです。
私がどんな犠牲を払ったとしても、どれだけ与えなければならないとしても、どれだけ自分が負けているように見えたとしても、それでもあなたが共におられます。自分が倒れることがないとわかっているのは、とても素晴らしい気分です。あなたがそこにいて私を持ち上げ、御腕で支えて下さるのです。だから、私には何も恐れるものはありません。これから多くの試みがあるだろうし、前に言ったことを撤回しそうになることもあるでしょう。でも、あなたの恵みによって、私は進み続けます。
私は前進するしかありません。そうするしかないなら、いっそのこと全身全霊を込めるべきでしょう。徹底的にやってみるべきです。しぶしぶとためらいながらだらだら進むより、全力を投じた方がいいでしょう。そうするのが早ければ早いほど、勝利は、つまりあなたが望む勝利、長いこと続いている弱点を強めるという勝利と、私の弱さの中にあなたの力が完全に現れるという勝利がすぐにやってくるとわかっています。[5]
あなたは言われました。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように。」[6] 明確な祈りと願い事をするには多くの信仰を要しますが、それが、あなたの力による明確な答えを生じさせるのです。イエスよ、信ずる者にはどんな事でもできます。人にはできなくても、神には何でもできます。不可能と考えられていることをするのをあなたは専門としておられ、一見不可能に見えることが、あなたの得意分野なのです。あなたは私たちの救世主であるばかりか、奇跡を行う方でもあります。
信仰によって、この祈りを祈ることで、私は、私の人生のための御心を受け入れると決めました。水の上に足を踏み出し、あなたが私を支え、向こう岸まで運んで、強くしっかりした勝利に足を下ろさせて下さると信頼しています。
どうか、天使の軍勢をおこして私を支え、強めて下さい。主よ、時々、自分の考えることや反応で、頭の中で戦争が起こっているように感じます。あなたの静かで小さな声と、私を導くあなたの御言葉の声も聞こえるのですが、時々、心配や恐れや疑い、批判的で苦い思いに悩まされます。
どうか、戦うための超自然的な恵みを下さい! 私をもっとファイターにして下さい! イエスよ、あなたはそれがどれほど不可能に見えても、私が現状を超越するのを助けて下さると言われました。どうか荒れた海を鎮め、私の心を穏やかにして下さい。鎖を断ち切って、あなたとの関係を妨げる物事から私を解き放って下さい。
イエスよ、こんなにたくさんの恐れや不安を抱いているのは嫌です。今味わっているストレスや緊張が好きではありません。過去への後悔と、将来への恐れから私を解放して下さるよう、お願いします。
この祈りを祈った後も、戦い、私の心を犠牲の祭壇に捧げ、御心を受け入れられるよう、あなたの御手の内の委ねた器にして下さるようお願いしなければならないことは知っています。きっと、試みや誘惑に遭うでしょう。倒れることもあるでしょう。でも、あなたの恵みにより、私は七たび倒れてもまた起きあがる強い者のように、何度も立ち上がることにします。[7]
このチャレンジは、姿を変えた素晴らしい祝福です。そして、もし私がそうだと気づいてチャレンジを受けて立ち、それをポジティブなものにし、全身全霊を注ぐなら、物事はずっと簡単になります。その時、私はあなたに協力していることになるからです。
こうして祈ると、すべてが素晴らしく、本当に果敢で勇気があるように聞こえます。でも、たぶん、私はいつもそうであるとは限らないでしょう。ですから、はっきりと立場を示すために、今日、信仰によって、それが私のゴールであり、それが私の狙いであり、これから私はあなたの恵みによってそうするつもりであると宣言したいです。
イエスよ、感謝します! 私はあなたを完全に信頼しています。そして、あなたが私を愛して下さること、すべてのことを見事に行われることを知っています。私はあなたに寄り頼んでいます。祈りへの答えを期待しています。あなたがそう約束されたからです。あなたなしには、私は無です。[8] 私の内には、私の罪深い性質の内には、善なるものは何一つ宿っていません。[9] ですから、変わるためのあなたの強さと力が必要です。イエスよ、あなたが切実に必要です。私の行動や他の人とのかかわり合いにおいて、あなたの愛と御霊に、一歩一歩導いていただかなければなりません。私の人生が他の人たちにとってあなたの愛の手本となることを願っているのです。
人々が私を見る時には、私の中に現れるあなたを見てほしいです。ペテロとヨハネのことを思い出します。彼らは学がない普通の人でしたが、人々は二人がイエスよ、あなたといたことを知っていました。[10] 人生の旅路の終わりに、自分の行程を終えてあなたが故郷に私を呼ばれる時には、人々が私の内にあなたの愛と恵みと憐れみと、理解、強さ、力が現れていたのを見てきたゆえに、私はあなたと共にいた人だと言われることを願います。
あなたの御霊に、かつてないほどに私の中で生き、働いてほしいです。あなたの愛で、あなたへの愛、他の人たちへの愛で満たされ、それが溢れ出て他の人たちの人生の祝福となるまでになりたいです。
イエスよ、たとえすぐに答えが見えなくても、たとえしばらくの間、祈りへの答えを見たり実感できたりしなくても、あなたが約束されたので、私は信じ続けます。あなたが私を失望させられないことを、私は知っています。あなたの恵みにより、私は御霊の内に歩み、自分を顧みず、愛情深くなり、喜んで与え、他の人に気を配り、そして御言葉を読み、受け入れ、御言葉に生きるよう励もうと決意しています。
イエスよ、あなたへの献身を新たにしたいです。あなたと交わり、あなたに心を注ぎ出し、私個人の状況のためのあなたの言葉を聞いたりして、もっと多くの時間をあなたの御前で過ごしたいです。どうかすべては大丈夫だと安心できるように、私がしがみつける安定した力となって下さい。必要だと感じる時には、再び最善を尽くしてあなたのところに戻って必死の祈りを祈り、信仰の良き戦いを続けるために強さを与えられるよう、あなたに呼び求めます。[11]
いとしいイエスよ、あなたを愛しています。いついつまでもあなたが必要です。私は常にあなたの傍らにいるように努めます。そして、あなたの子どもであることを永遠に感謝します。アーメン。
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。[12]
1997年12月初版 2013年7月更新、再版
朗読:イレーヌ・キティ・ヴェラ