目の見えない人と象の話
Of Blind Men and Elephants
March 8, 2023
ダヴィーン・ドネリー
ジョン・パイパーは、著書『A Sweet and Bitter Providence』の中で、こう書いています。「人種差別やあらゆる種類のエスノセントリズム」―つまり自分の属する集団や文化の方が優れているという態度―「は、以前と同じく今日でも、世界中でよく見られる。地球は、インターネットによってどこにでも瞬時にアクセスできることから、ますます小さくなってきており、それは数えきれない奇妙な人々や生活様式が私たちの生活に入り、私たちの奇妙さも彼らの生活に入ることになった。多様性がこの世界にもたらされたのだ。問題は、私たちがそれに対してどう考え、感じ、行動するかである。」[1]
他者に対する寛容さは、多文化でグローバル化した今日の世界では極めて重要です。それは、相手の国籍、文化、人種、宗教、信念体系、ライフスタイル、性別、その他いかなる要素にも関係なく、人を尊重し、良識ある公平な態度で接することを意味します。相手の話に耳を傾け、彼らがなぜそのような考え方に至ったのかを理解することもまた、証し人であることの一部なのです。
子供の頃、私は目の見えない6人の人と1頭の象にまつわる有名なインドのたとえ話が描かれた漫画本を持っていました。この話では、6人の目の見えない人が象に出会うのですが、今まで誰も象を見たことはありませんでした。一人の人が象の足に触れて、「象は木のようだ」と言います。別の人は尻尾に触れて、「いやいや! 象はロープのようだ」と言います。3番目の人が象の脇腹に触れ、「象は壁のようだ」と言います。4番目の人は大きな耳に触れて微笑み、満足げに「ああ、象は葉っぱのようだ」と言います。5番目の人はツルツルしたするどいキバをつかんで、「象はまさに槍のようだ!」と言います。6番目の人は象のにょろにょろ動く鼻をつかんで、自慢げに、「君たちは皆間違っている! 象はヘビのようだ」と言いました。
単純な話ですが、いろいろと考えさせられます。自分にあてはめて考えてみると、ある状況や意見、友情が思い浮かび、いわば象の「一部」を見ただけで、何らかの考えや気持ち、意見、見解を抱いている目の見えない人のような自分の姿を想像することができます。
あなた自身を、人生で象にたとえられる何かに遭遇した一人の目の見えない人として想像してみてください。その象とは、ある人物、何らかの状況、あるいはあなたが今直面している問題かもしれません。あなたはただその一部に触れているだけで、相手や状況、問題には、あなたの目に見えない部分があるのかもしれないと考えてみてください。そうすれば、自分は必ずしも全体像を見ていないことに気づき、視野が広がるかもしれません。
不貞を働いた女に罰を与えるよう、イエスがパリサイ人から求められる新約聖書の話は、いつ読んでも感動的です。モーセの律法では、彼女は石で殺されることになっています。イエスがモーセの律法に反する判断を下すなら、彼女に石を投げようと待ちかまえている群衆の目には、イエスは正しい指導者と映らないでしょう。イエスは怒った群衆にこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ 8:7)。
その後、姦淫を犯した女に、主はこう言われました。「あなたを罰する者はなかったのか。わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ8:10-11)。正しいのは神だけです。神に裁いていただきましょう。
イエスはこう言われました。 「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」(マタイ 7:1–5)。
自分は相手よりもすぐれていると信じることは、批判的になる元です。その一方、憐れみは、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」ことを認めるところから来ます(ローマ 3:23)。
第35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは、寛容についてこう語っています。「寛容であることは、信念の欠如を意味するわけではない。むしろそれは、他者への抑圧や迫害を忌み嫌うことである。」
他の人への寛容とは、罪を受け入れることではありません。寛容とは、その人を好きかどうかとは関係なく、人は神の姿に似せて創造された人間として、敬意と良識を持って接せられるに値すると認識することなのです。
ピーター・アムステルダムはこの点について次のように書いています。
人々に愛や寛容を示し、彼らは神に創造され、尊厳をもって扱われる生来の権利を持っているという事実に敬意を払うことは必ずしも、彼らの行動を容認し、彼らの信条を支持することにはなりません。例えば、私は麻薬貿易によって無数の人生に害が及ぶことは正しくないと信じています。しかし、そのような道徳的悪にはまりこんでいるか、あるいは、それが誤っているとは考えない人と接する時にも、私たちはやはり彼らを神のかたちに造られた個人として尊敬をもって接し、彼らに救い、希望、神の愛を提供するよう召されています。
時に、不正や悪を非難するように導かれ、そうするよう良心の呵責を感じることもあるでしょう。しかしそれをする上での鍵は、クリスチャンとして私たちの第一の務めはイエスの愛を他に示すことであると心しておくことです。誰かの行いが良くないか、神の御心に沿ったものではないとあなたが確信しているとしても、私たちはやはり愛するよう求められています。私たちは皆、他の人たちと接する際に、イエスの愛を忠実に表すものとなれるよう祈り、イエスだったらどう対応するかを考慮しなくてはならないのです。
私たちは、他の人について間違った判断をすることがあります。そして、言うまでもなく、他の人の決断や、何かの状況や出来事に、必ずしも単純な「正しい」あるいは「間違っている」のレッテルを貼ることはできないと学べるのです。
私たちはモノクロレンズを通して他の人や状況を見てしまいがちですが、時間や経験、過ち、失敗によって、多彩色で見ることを学んでいきます。神は一人ひとりの心をご存知で、私たちが決して知り得ないような方法で人のすべてを理解されています。神は人を裁くのに私たちの助けは要りません。けれども、神が愛しておられることを人に示し、神の愛の良き知らせを世界に伝えるためには助けを必要とされています。マザー・テレサも言ったように、「人を裁くなら、人を愛する時間はありません。」
異文化コミュニケーションを研究する学者たちの主張によれば、人間が社会に適合し、受け入れられている文化的基準や価値観に倣っていくと、自分の周囲の文化を内面に取り入れることになり、それは私たち自身の一部となって、物事の見方や決断に大きな影響を与えるようになるとのことです。たとえて言うと、私たちは文化というレンズを通して世界を見て、理解するようになるのです。いったん、文化が信条の内なる一部になってしまうと、私たちはそれを常識として考え、ほとんどの場合、それについてよく考えることをしません。
ある文化に属していない人がその文化に触れた場合、その文化に生まれ育った人たちがそこにどっぷり浸かっているためにほとんど気づかないようなことに気づき、その価値を高く評価するようです。逆に外国人は、その国の人が慣れ親しんでいる社会的な期待や慣例を理解できない、あるいは評価しないということがよくあります。
この1年、私は3つの大陸を旅し、4つの国で時間を過ごし、素晴らしく興味深い大勢の人たちに出会いました。新しい文化や国、状況、人々に適応するための秘訣は何かと聞かれたら、私は「他の人への誠実な関心と気遣い」だと答えるでしょう。
最初は理解できないかもしれない人に対しても、コミュニケーションの橋をかけるよう努めましょう。友好的でオープンな態度で、親切と尊敬を示すのです。ありのままの相手を受け入れるのであり、相手を閉めだすような円を描いてはいけません。「このうちで最も大いなるものは、愛である」(1コリント 13:13)こと、また、愛はどのような言語、文化、集団に属する人の心にも届く世界共通語であることを忘れないでください。
必ずしもあなたは、誰かを理解することも、なぜその人がそのような反応をするのか、そう感じ、考えるのかを理解することもできないかもしれませんが、それでも、彼らを愛そうと努め、その人のすべてを知り、愛し、その人と永遠に個人的な関係を結びたいと願っておられる方についての良き知らせを分かち合うことはできるのです。
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更
1 John Piper, A Sweet and Bitter Providence: Sex, Race, and the Sovereignty of God (Crossway, 2010), 14.