愛が必要
The Need for Love
August 5, 2020
ガブリエル・ガルシア
「苦しみに満ちた世界には愛が必要、愛が本当に本当に必要・・兄弟を愛そう・・愛が必要、ハートが必要。」 これは、フアネスというコロンビア人歌手が書いた曲を翻訳したものですが、人類が共通して愛を必要としていることを表現しています。[1] 60年代には、「誰にでも愛が必要」と歌う曲もありました。[2] 無数の社会的紛争、暴動の勃発、憤りの叫び声、パンデミックの脅威、そして他にも利己主義や自己中心、自分勝手という「ウィルス」やその他の病気が蔓延している現代において、最も必要とされているのは愛です。
行動によって本物であることが分かる愛であり、困っている人に手を貸し、親切で優しく振る舞い、相手の気持になって考え、人を助けられる方法を常に見つけようとする愛が必要なのです。親切な行為によって示される「愛が本当に本当に必要」です。1日を通じて出会う人に対して、また、外出制限がある中でニューノーマルとなったネット上のコミュニケーションにおいても、それが同じく必要とされています。
もし私たち全員が、たとえ少しずつであっても、人に親切にし、励ましの言葉をかけ、礼儀正しくあり、社会に貢献しようと努めるならば、人の心の状態は好転し、生きていくのがもう少し楽になると、私は本気で信じています。人に批判的になるのを止めるなら、そして、相手の社会的状況や見かけなど何についても偏見を抱くことをせず、その人の真価を理解しようとするなら、乱暴な反応は減り、もっと対話し、もっと赦そうとすることでしょう。
そして、そういった親切な振る舞いに加えて、愛の創造者である神を人々に紹介し、その神に目を向けさせるなら、私たちの努力は何倍もの効果を生みます。福音トラクトをあげて、「神の祝福を」と告げたり、聖書の言葉やクリスチャンの名言を伝えたり、さらに状況が許す時には会話を始め、イエスが地上におられた時、行く先々で人々を助けておられたことなどについて、深く話をするといいでしょう。
私たちがどうしてそのように振る舞うことができ、相手を気遣うことができるのかを知りたい人もおり、そんな場合は、イエスがいかに憐れみ深く、心優しく、思いやりのある方であるかを話すことができます。親切な言葉や行動によって、いかに証の扉が開かれるか、驚くほどです。
マーガレットという友人が、彼女の利用している契約駐車場で働く、真面目で気難しい男性について話してくれました。ある朝、友人は駐車場に入ろうとしてリモコンを操作していたのですが、どうしてもゲートを開けられませんでした。そこで係員に助けを求めたところ、無愛想に「あんた、リモコンの操作を間違えているよ」と言われたのです。
友人は、それによってリモコンの正しい使い方が分かったけれど、無愛想な係員のことが頭から離れませんでした。あの人は、なぜあのように振る舞ったのだろう。このビルで働く人たちの前で恥をかかされたと感じたのだろうか。それとも、意地悪な扱いでも受けたことがあるのだろうか。いったい何があったのだろう。
マーガレットは、「ほんの小さな愛が大きな効果をもたらす」という言葉を思い出しました。そこで、その係員の名前を覚え、会うたびに心を込めて挨拶することにしたそうです。
「リボリオさん、おはようございます。」
何か良いことに気づいたら、それも口にします。「あら、髪の毛を切ったの。素敵ね。」 また、スナックを食べているのを見かけたら、「おいしそうね」といった具合です。
その人をひとりの人間として気遣っていることを、そのようにちょっとした言動により伝えていったのです。それから何ヶ月か経った頃、リボリオさんは変わり始めました。以前よりも温和で優しくなり、よく冗談も言うようになったそうです。
友人は、「人が冗談を言えるようになったら、それは信頼のしるし」と言っていました。
今、二人はとても良い関係にあり、リボリオさんは友人を温かく出迎えるようになりました。それは、友人が礼儀と敬意を示してきたことで、リボリオさんが自分は受け入れられ、尊重されていると感じられるようになったからです。これこそ、日々の些細なことに神の臨在をもたらすことなのです。
素敵な曲や歌詞のメッセージで心を動かすファネスや他の多くのアーティストの歌に合わせて、「愛するキャンペーン」をするのはどうでしょうか。まわりの人に対して、もっと親切で心優しく、謙虚に振る舞おうではありませんか。自分は相手よりも優れていると考えるのは、ただの傲慢であるし、使徒パウロが言うように、私たちは互いに相手を自分よりも優れていると考えるべきです。[3]
私も友人のマーガレットと同じく、私たちが互いに親切と優しさと敬意を示すたびに、それはこの世で希薄になっている愛を回復させる上で、大きな効果をもたらすと心から信じています。どこにいようと、どこに行こうと。
フアネスのこの歌詞のように生きようではありませんか。「今は、すべての人の考えが変わるべき時。愛によって、憎しみをよいものに変えよう。今は、変わるべき時。」[4]
まわりの人に愛情を示す時、それはイエスを示していることです。そのイエスが、彼らの人生に働きかけ、彼らもまた「愛するキャンペーン」に参加するよう導いてくださいます。私たちが協力すれば、無関心で冷たい世界を、もっと暖かく愛のある場所に、もう少し天国のような場所に変える手助けができることでしょう。実際、私たちは皆、まわりの人にもっと優しく振る舞うことで、イエスの代理人として、その愛の御霊によって輝くことができるのであり、他の人たち、特に懐疑的な人に対しても、イエスは確かに存在し、彼らのことを気にかけ、愛の道へ導きたいと思っておられることを証明できるのです。
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「私たちは、人に触れ、微笑み、優しい言葉をかけ、話を聞いてあげ、心からほめ、ちょっとした行為で気遣いを示すことの持つ力を過小評価してしまいがちだ。そのどれもが、人生を好転させる可能性を秘めているというのに。」—レオ・ブスカーリア
「親切心のある人は、どこへ行こうと、それを親切な行動で示し、相手の心を動かす。それが思いつきのものであれ、計画されたものであれ、同じだ。親切がその人の生き方となる。」—ロイ・T・ベネット
「みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。」—1 ペテロ3:8 [5]
「誰が親切を示されるに値し、誰がそうでないかを判断しようと、裁判官や陪審員のように振る舞うことは、私たちの役割ではない。私たちはただ、無条件に、何の下心もなく、親切にしなくてはいけない。たとえそうしたくない時でも、いや、そうしたくない時にこそ。」—ジョシュ・ラドナー
「こう言うのも小恥ずかしいが、45年間調査研究してきた結果、私が人に与えることのできる最良のアドバイスは、もう少し互いに優しくなろうということだ。」—オルダス・ハクスリー
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」—マタイ7:12
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」—ガラテヤ5:22–23 [6]