ありきたりなことが驚嘆に変わったとき
From Mundane to Marvelous
April 22, 2015
エルサ・シクロフスキー
私が子供の頃やティーンの時に好きだった小説に、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』7部作のひとつ『馬と少年』があります。主人公の一人であるアラビスは領主の娘で、身分は高いもののひどく不快な男性との望まない結婚(父親が決めたもの)から逃れようとします。アラビスと一緒に逃げることになったのは新しい友達で、彼らはアラビスと血のつながりはないものの、彼女と出会ったとき、安全のために一緒に旅することにしたのです。彼らの目的地はナルニアという、不思議な架空の国でした。アラビスの経験は私の想像力を虜にし、心を揺さぶったのです。
旅の半ばで、アラビスは友人である貴族女性とばったり出くわします。二人が犯した間違いによって、アラビスは彼女を探していた父親からあわやというところで逃れたものの、旅の伴たちと離れ離れになりました。多くの障害や遅延を経て、アラビスの友人はついに、古い荒れ果てた宮殿の裏にある隠された門から、彼女が国を出るのを助けます。ところが、アラビスに運が向いてきたように思えたとたん、友人の不手際と思いがけない状況により、二人の少女は重大な危険にさらされます。王とその側近たちが突如としてこの人気のない宮殿に現れたのです。二人は近くの部屋に走り込み、あわててソファの後ろに隠れました。すると恐ろしいことに、そのすぐ後にアラビスの婚約者や王たちが部屋に入ってきて、密談をし始めたのです。それが終わるまで、二人はじっとしていないといけませんでした。
ソファの後ろに身を隠して、追っ手からほんの数十センチのところでぶるぶる震えながら隠れていると、アラビスは今まで聞いたこともないほどの大変な秘密を耳にします。数時間の内に、王子がナルニアとその隣国であるアーケン国への奇襲攻撃をするという計画だったのです。
密談が終わると、アラビスの友人は彼女がその町から逃げて旅の伴たちとまた一緒になるのを助けます。アラビスは自分が聞いた秘密を教え、彼らは間一髪でアーケン国の王に警告することができました。その結果、アーケン国の軍はあの王子の軍を打ち負かし、アーケン国とナルニアは救われます。アラビスとその友人の間違いがなければ、二つの王国は滅びていたかもしれません。万事が計画通りに行っていたなら、アラビスは王が密談をするために宮殿に入る前に逃げおおせていたでしょう。しかし、もしそうなっていたなら、アラビスと旅の伴たちが戦争の後に落ち着くことになった、当のナルニアとアーケン国はどうなっていたことでしょう?
したくない結婚から逃れるというアラビスの元々の目的はそれなりのものでしたが、二つの王国を救うだけでなく、友達の将来をも救うという気高いミッションと比べれば、また、彼女とその友人の間違いやどうにもならない状況からもたらされた計画の変更と比べれば、ありきたりなものでした。
アラビスの冒険の中に、私自身の経験との類似点が幾つも見つかります。彼女が自分の家から逃げたことは、私が何度、何かの状況や環境から「逃げる」ことをし、もっと良いだろうと思い描いた場所(つまりより良い職、理想的な恋愛関係、より良い学習環境など)に行こうとしたかを思い出させます。アラビスのように、私の思いの中には明確に定められたゴールがあって、どんな障害があろうとも、そこに達そうと心に決めています。それで、「主よ、万事が申し分なくスムーズに行きますように。起こりうる障害や問題を取り除いてください。不都合でわずらわしいありとあらゆるものを」と祈るのです。神はおそらく私の計画を見て、くすっと笑っておられるのでしょう。「それでもいいが、それは多少ありきたりではないか。私はほんとうに素晴らしいものを計画しているんだよ!」と。主は私の祈りを聞いて、おそらくニコッとして、「問題は役に立たないように見えるかもしれないが、それは私が目的を達成するために使う、お気に入りの手段なんだ」と言っておられるのでしょう。
私はよく旅の途中で間違いを犯すし、予想外の問題も起こったりして、「逃げる」チャンスをほとんど台無しにしてしまうことがあります。取り決めはおじゃんになり、計画は頓挫し、性格上の衝突は起き、コミュニケーションはぎくしゃくし、状況は私の手に負えなくなり・・。不満のため息をもらします。「一体どうなったの?」 怒りがこみ上げます。「私の素敵で立派な計画がめちゃくちゃになっている!」
私は必死になって自制心を取り戻し、計画を元どおりにしようと悪戦苦闘します。しかし、状況は良くなるどころか、一見、大惨事や失敗に見えるものと化するのです。「最低だわ」と私はつぶやきます。でも最終的に、物事は私が望んでいたのとは違う形にではあるけれど、もっと見事に収まっていきます。そして私は、神があのようなイラつかせる障害や間違いを使って、私をもっと価値ある機会、実り豊かで永続する結果、私の最も突拍子もない夢よりも素晴らしく充実した目的地へと向けさせてくださったと気づくのです。神は私の間違いさえも使って、私の歩みを自分の計画から引き離し、神のご計画に近づけられるのだと理解しています。自分の計画が頓挫して、神の計画の美しさを見るという経験により、私の自信の置き場が、自分の「素敵で申し分のない計画」から神の「完全で包括的な洞察」へと移りました。
神の御手に気づく時、私はため息をつきます。しかし今回は満足のため息です。神が私を連れて来てくださった美しい場所に驚嘆するのです。感謝の気持ちを抱きつつ、私は、神が私の元々の計画を覆して、ありきたりのものを素晴らしいものに変えてくださらなかったなら、今自分がいるところには決して到達できなかっただろうことを悟ります。たしかに、神の思いは私の思いよりも高く、神の道は私の道よりも高いのです![1]
1 イザヤ 55:8–9を参照.