快適ゾーンから抜け出る
Moving Outside Your
Comfort Zone
May 5, 2015
引用文集
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わたしはただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。—ピリピ 3:13–15
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いったん快適ゾーンから足を踏み出し始めれば、やがて思い切った行動に出るのももっと容易になり、さほど脅威を感じなくなります。研究者らが呼ぶところの「生産的な不快感」に、もっと慣れてくることでしょう。馴染みのないものや、ぎこちなく感じるものと、新たにかかわりを持つことによって、あなたはさらなる進歩を遂げ、高みに登るという考えに対してもっと意欲的かつ熱心になり、不安を感じていなくなるでしょう。
人生には、私たちを自分の殻の外に押し出してくれるような状況が数多くあります。それが体重を減らすために、炭酸飲料や糖分を控えることであれ、ジムに通い続けることであれ、嫌いな仕事をやめて、心から好きになれるような仕事を始めることであれ、また聖書学習会に、それもあえて言うなら、見知らぬ人たちに混じって参加することであれ、私たちは絶えず自分たちの快適ゾーンを出る寸前のところまで行くのですが、そこでためらってしまいます。前に進むだけの信仰がないために、怖くなって引き返してしまうのです。
ある日イエスは、ガリラヤ湖のほとりで教えておられましたが、近くの釣り舟に乗って、その揺れ動く乗り物を説教壇にしようとされました。おそらく主は、ご自分が腰掛けた舟に、魚が入っていないことに気づいておられたのでしょう。湖畔で説教をされた後、漁師のシモンに、沖に漕ぎ出してそこに網を投げるよう言われたからです。一晩中一匹も獲れなかったので、シモンはおずおずと、しかし敬意を込めて、こう答えました。
「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」1
そしてその後、魚を一匹も釣れずに戻ってきたその漁師に、何が起こったと思いますか? 次の節はこう述べています。
「そのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。」3
網が破れそうになったばかりではありません。別の舟が助けに来たものの、両方とも沈み(sink)そうになったのです。そしておそらく、その場はかなり魚臭かった(stink)ことでしょう!
この聖書の一節は、私たちが人生で挫折し、わびしさを感じてはいるものの、同時に快適ゾーンから出て、より深いところにある、より大きな将来性を秘めた水に潜っていくことを渋っているような時について、率直に語っています。そんな時私たちは、あのシモンやヤコブやヨハネのように、空っぽの釣り舟の中に、ぼんやりと座っている漁師たちのような心境なのです。持っている才能や時間や道具を用いて、あらゆる手を尽くしました。夜明け前に起きて舟をこぎ出し、網を投げ、空に月が昇り、星が現れるのを見守りましたが、結局は「何もとれずに」戻ってきたのです。
一体どうすればいいのでしょう? 正直言って、私だったら、湖で何時間も懸命に奮闘したあげくに、欲しかった「魚を捕る」ことができなかった」としたら、入り江に戻って網を手放し、まるきり違う仕事に就きたいという、とっさの衝動に駆られることでしょう。もっと沖にこぎ出して、再度試みるなど、絶対にごめんです。快適ゾーンが好きでたまらないのですから! けれども、それこそイエスがシモンや他の漁師たちに、求められたことでした。そんなことをしても無駄とは思ったものの、シモンはこの、人の心を惹きつける「師」を信頼し、従いました。そしてどこにも収めきれないほどの大漁という形で、大いに報われたのです。
主は私たちの人生において、不可能なことを成し遂げたいと望まれます。けれどもそのために、ご自分を完全に信頼し、その言葉に言い逆らうことなく、無条件で従うよう、私たちに求められるのです。-ダイアナ・アンダーソン・タイラー
リスクを冒す
主が何か新しいことをされたり、あなたには急進的と思われるような、真新しいアイデアを与えられる時があるでしょう。あなたは自然と、「セーフモード」に切り替えて、そのアイデアにしり込みするか、その好機をつかむことをためらってしまうかもしれません。それは真新しく、前に一度も試したことがなく、リスクを伴うように見えるからです。しかし、おそらくその場合主は、あなたにその好機を捕らえてほしいと思っておられるのでしょう。「安全に」ことを進めようとして長く待ちすぎたり、他の人々を長く待たせすぎたり、あるいはあなたや他の人たちがくぐり抜けねばならない、面倒なお役所仕事の輪を山ほど作り出すなら、主が差し出しておられる、開かれた扉という好機を逃してしまうかもしれません。
主が導いておられる方向に流れないなら、時として、あなたに大きな飛躍を遂げさせてくれる絶好の機会を逃すことにもなりかねません。だからこそ、必要な時に喜んでリスクを冒すことが重要なのです。つまり、大抵の場合はリスクを冒す覚悟でいるというだけでは、だめなのです。中にはそういう資質を、豊かに備えた人もいますから。むしろ肝心なのは、必要に応じてリスクを冒すということです。これは計算済みのリスクを冒すことと呼ばれています。つまり、様々な利点と不利な点を考慮し、そのプロジェクトを主に委ねた上で、リスクを冒すのです。たとえば、新たな開かれた扉をくぐって好機をつかもうと決意したり、長期の提携を要するプロジェクトを手がけたり、新しい国に移動したり、新しい職に就いたり、証しにおいて新たな手法を試みる、といったような形で、計算済みのリスクを冒すのです。
リスクを冒すことにかけては、自分のすべき分を果たさなければなりません。(窓のように小さな機会しか開いていなくても)祈りに時間を割き、利点と不利な点を客観的に討議し、他の人々に相談し、主から聞く方が賢明です。 主が承認を与えられたなら、知恵と必死さと祈りと常識をもって、そして結果については主に信頼しつつ、それに乗り出すだけの信仰を持つことができます。
私たちは、人生において有益なものや、築き上げていくよう主に求められたものを維持したいと望んでいますが、ただ維持したいという理由だけで、古いものにしがみついたりしないよう、気をつけなければなりません。そのような考えでいるなら、結局は凝り固まって、機能停止してしまい得るからです。新しいことを手がけて物事を改善するために、私たちの中で動いている御霊の能力を制限してしまうこともあり得ます。変化を遂げ、成長するために、私たちは喜んで快適ゾーンから踏み出し、新しいことを試み、実践する必要があるのです。古いワイン用革袋を新しいものと交換し続けなければなりません。
リスクの高い賭けに出るのを余儀なくさせられるような状況は、厳しいものです。それは高いリスクが伴う反面、大きな報いも得られるような何かをすると決めるか、実践することを意味します。けれども、主がそうするよう示されるなら、結果については主を信頼しなければなりません。結局はそういうことになるでしょう。けれどもそれこそが、私たちの人生のあらゆる物事について与えられている、主要な約束ではないでしょうか? それは、神に信頼して、神が示されたことに従うなら、万事がうまくいくという、「神という要素」です。
私たちは主によって自分にもたらされた好機をつかめるよう、備えていなければなりません。主の御霊が自由に動き、流れている時には、数多くの扉が開かれているからです。主がもう二度とチャンスを与えられないというわけではありませんが、可能な限り、主が最初に与えられた最善の機会をつかむことが望ましいのです。主が私たちに、たった今与えられている機会に乗じることが。
私たちは賢く、祈り深くあり、様々な要素や選択肢を考慮しなければなりませんが、同時に好機をつかめるよう備え、他の人たちがそうする時にも、支持してあげなければなりません。すべてが申し分のない状況になって、リスクがなくなるまで待っていてはだめです。そんなことをすれば出遅れて、主の開かれた扉を逃してしまうことになるからです。—ピーター・アムステルダム3
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次にもっと多くのものを求めることにためらいを感じたなら、こう自問するといいでしょう。「それを求めることで、私に起こり得る最悪の事態とは何だろう?」と。 私たちは個人的にも仕事の面でも、「No」という返事を恐れていると思います。その結果、信仰によって恐れを乗り越えるのではなく、むしろ「快適ゾーン」にとどまり続けるのです。考えてもみて下さい。神が違う方向に召しておられるとわかっているのに、ただ未知の何かや、批判の声や、誰かの期待を裏切ることを恐れて、どこかにとどまり続けたことが、これまでに何度あったでしょうか?
自分はもっと多くのものを受けるに値しないと考えているなら、より多くのものをもらえることは、まずないでしょう。あなたは自分が受けるにふさわしいものを、もらい損なってしまいます。人は求めた通りのものを得るのですから、恐れずに求めましょう。-モーガン・カンクリーニ
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霊の旅には、快適ゾーンから出て未知の現実という世界に足を踏み入れることを要します。…この筋書きは、旧約聖書のすべての英雄伝に反映されています。アブラハムもヤコブもヨセフも、そしてヨシュアも全員、信仰によって踏み出し、古い世界を後にして、神の約束に従わなければなりませんでした。イエスでさえ、人の一員として歩むために、数々の天の安楽を後にされたのです。それは紛れもなく、すべての中で最も胸を打つ神話であり、本当の神の物語です。-ドワイト・ロンゲネッカー
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パウロにさえも快適ゾーンがありました。皆さんも私も、快適ゾーンから足を踏み出して、…救いのメッセージを分け合う時には、幾分不安を覚えるものです。パウロでさえ、私たちと同じ気持ちであったと言いました。私たちはある意味、この並外れた使徒の言葉に、ショックを受けるかもしれません。パウロといえば、罪びとに怒号を浴びせ、雄弁に信者を励ます姿を思い浮かべるからです。ユダヤ人文化の中で高い教育を受け、キリストによって変貌を遂げ、常に力強く福音を説いたこの人物が、自分がたびたび「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」4 と認めることを、いとわなかったのです。おそらく彼には、ゼカリヤ4:6にある「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」という言葉の意味が、わかっていたのでしょう。-エド・ステッツァー
2015年5月アンカーに掲載。朗読:キャロル・アンドリュース。